2022年1月29日、「夕焼けを見てたら、雲のゆっくりした動きに気がついた」と坂本は記す。「東京でいったい何人が これを見ているだろう」、その大気圏のイヴェントに坂本は、「雲の動きは音のない音楽のようだ」と感じた。かつてナムジュン・パイクは「月は最古のTV」と言った。現代においても、日蝕や月蝕や天体のイヴェントがいまだに人類にとってのエンターテインメントであるように、月の満ち欠けや雲の動きは、太古の人類にとって啓示を受けるような儀式的なものでもあっただろうし、想像力を投射するエンターテインメントでもあったにちがいない。それは、私たちが宇宙に存在する惑星に生きていることを意識させるものでもある。同様に、空を見上げて、ゆっくりとした雲の動きに音楽を聴き取ることは、人類の大きな時間の流れが、ひとつにつながるような感覚をもたらすものでもあるかもしれない。
坂本は2002年にケニアを訪れ、そこで見た雲の動きが静けさの中で、まるで聴こえてくるように感じ、雲の音楽を作りたいと強く思った。それがその後の坂本の多様な音楽のあり方を模索する音楽的実践の原点になったとも言えるだろう。その後、坂本は音楽とは何かということについて、2011年の東日本大震災をへて、より思索を深めるようになっていた。植物のデータに耳を傾け、地球の鳴動を感じ取ろうとすることは、人類が作り上げてきた音楽という文化を、脱人間中心主義的に捉え直すことでもあった。音楽とは何か、誰のために、何のためにあるのか。音楽という文化的営みについての、そのあり方への懐疑。音楽がどうしようもなく音楽でしかありえないことをどうやって乗り越えることができるのだろうか。
2019年、雨の中、ニューヨークの坂本の自宅の庭にピアノが搬入される。雨の降る庭に野ざらしにされたピアノに打ちつけるランダムで非周期的な雨音が、どこか雨によるピアノの演奏のように感じる。雨の音は、この映画において、要所でどこか気になるものとして何度もたち現れてくる(そのように整音されているようだ)。それは、自然に存在する音がそうであるように、ときには気づかずに流れていってしまう。世界は太初より、すでに存在しているのに、そこにほかの何を作り出す必要があるだろうか。李禹煥が投げかけた問いに、晩年の坂本が共感していたように、自然に存在する音がすでに音楽を奏でているかのように坂本には聴こえていたのかもしれない。インスタレーション作品《IS YOUR TIME》にインスピレーションを与えた、津波によって被災したピアノが、「自然によって調律された」もうひとつのピアノへと転生したように。坂本は「ピアノがどのように自然に還るか」を観察することにした。それから4年をへて現在まで、ピアノという人工物はその姿を、もとの素材としての木や金属という「もの」として、自然に再帰属されようとしている。