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研ぎ澄まされた〈あえて語らない〉という選択

これらの音楽は、現代のゲーム音楽と違い、決してすべてを語ろうとはしません。むしろ語らなさゆえに、プレイヤーの側に想像の余地を残していたといえるでしょう。簡素な矩形波のサウンドから、私たちは広大なフィールドや、まだ見ぬ物語の先を自然と補完していました。音楽はただの背景ではなく、私たちの想像力を起動するためのスイッチのような存在でもあったのです。

一方、現代のゲーム音楽においては、技術的制限はほぼ消滅し、オーケストラも、民族音楽も、テクノやヒップホップといった現代のポピュラー音楽も、また環境音でさえも現実と区別のつかないクオリティで自由に組み込むことができるようになりました。しかし、その〈自由さ〉は、ゲームにおける〈豊かさ〉と本当に結びついているのでしょうか。すべてを描写し、説明し、感情の起伏すらも音楽が先回りしてしまうとき、プレイヤーが入り込む余白はどこに残されているでしょうか。

もちろん、昔の制作環境に戻る必要などはありません。現代のゲーム音楽が本当に豊かであるためには、〈語ること〉を過剰にするのでなく、〈あえて語らない〉という選択を、再び自覚的に引き受ける必要があるのではないでしょうか。

制限があるからこそ生まれる表現があるということ、限られた手段の中で何を鳴らすべきか、また何を鳴らさないでおくべきか、その研ぎ澄まされた判断こそが、結果として強い表現を生んでいたということを、初代「ポケットモンスター」の音楽は今も私たちに教えてくれるでしょう。