建築家・隈研吾の15年間の歩み――俳句のような断片的映像をつむいで描いた連句的作品
岡博大は途方に暮れる。撮影しているときは夢中だ。つぎつぎに何かが起こる。追っていくだけで大わらわ。いつのまにか時間が経っている。途中で何度も、時間の経過と、積みあがってゆくデータを前にして。うん、ここまでにしよう。そんなふうにおもうことだってしょっちゅうだったはずだ。でも、プロジェクトは、話し合いは進み、建築家のアイディアはひとにはかならずしも可視化されぬまま状況に応じて生まれ変化する。ここまででいい、そのほうが映画として、〈作品〉としてまとまりができる。でも、現実は動いている。動きつづけている。この現実、あの現実、どちらもいれておかなくては。かくして15年の歳月が。
「隈研吾 粒子のダンス」は一建築家のしごとを扱うドキュメンタリー。
建築家・隈研吾は、こんなことをやり、あんなことをやる。列島の各地はもちろん、海外でもしごとをする。本人は撮影されているかどうかなんて気にしない。気にしている余裕なんてない。ファインダーをとおしてみている岡博大も、何がどう起こるかを知っているわけではない。ただ追いかけるばかりだ。追うなかで、ひとりの人が手掛けていることはどれだけのものか、としばしばおもう。全貌などとらえられるわけはない。わかっている。でも、まず、撮る、撮らなくては。ひとは建物のそばを通るし、見上げもする。それでいてあまり意識してはいない。建物って? じぶんのカラダにたいして、どう、なに?
映画は、だから、過剰だ。わかったようなふりをして、ストーリーを紡ぐのはあきらめている。そうじゃなくて、数多の映像を、岡博大が目撃してきた、あるいはみずからは気づかずいつのまにか撮った・撮られてしまったかもしれないことどもを、こんな、こんななんだ、こんなふうにいろいろが進んでいったんだ、と提示する。随所に、自然のことども遠景がインサートされ、みるものをなごませる。距離をおいてみる、と言い換えてもいい。藤本一馬の、奇数拍子を多用するギターが、隈研吾の建築、ではなく、隈研吾のしごとから切りとられた映像のリズムとかさなったりすこしずれたりする。ちょっとしたモアレ現象のように。
145分の映像にふれ、何を言ったらいいのかわからない。何が言えるのか考える必要がある。世にはあまりに多くのことどもがあり、ひとは消化しきれずにいる。「いいね!」の安易なひと言で、その消化できなさにちゃんとむきあう機会さえ、みずから捨てていないか。映画は、そんな姿勢そのものを、揺さぶる。
映像そのものからさらに、ほぼ文庫版サイズのブックレットも派生した。これはまた、べつの価値。コンパクトなのに、なんとゴージャス!
MOVIE INFORMATION
映画「粒子のダンス」
監督・撮影・編集・プロデューサー:岡博大
出演:隈研吾
音楽:藤本一馬
2026年3月21日シアター・イメージフォーラムで封切後、5月15日アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開予定
https://www.particledance.jp/