過激に政治化されたメロドラマが、資本主義への隷属から生じる人々の退廃をあらわにする。
戦後ドイツ映画の旗手が国際的スター監督となる直前の時期に撮り、日本では未公開のままだった2本の映画がパッケージ化された。ウラジーミル・ナボコフの小説を原作にヴィスコンティ作品などで知られるダーク・ボガードが主演、映画作家にとって初の全編英語による作品「デスペア 光明への旅」(78)は、まさに国際市場を射程に入れた野心的大作であり、ファスビンダーらしさ全開の映画だが、だからこそ、それとの対照性でわたしを驚かせたのが、もともとテレビ局の依頼で撮影された「少しの愛だけでも」(76)のほうである。あのキッチュな作風をあえて抑えたリアリズムを維持しつつ、それでも彼が一貫して挑むメロドラマなるジャンルの過激化への志向が明快に読み取れるのだ。

裕福ではないが、貧困にあえぐでもない家庭に育った男が、似たような境遇の女性と結婚、ささやかな家庭を築こうとする。男は残業も厭わず真面目に働くが、夫婦の暮らしはいっこうに楽にならない。たまの休日でも父親に金の無心をしなければならない状況に男は疲れ果て、やがて狂気や無力感に苛まれるようになる。贅沢に走るでも仕事をさぼるわけでもないのに貧しさから逃れられない。そんな資本主義による隷属状況がファスビンダー流メロドラマの根幹に置かれる。月賦による買い物がその象徴で、50万円の家具を現金で買うことはできないが、10カ月のローンでなら購入できる気になる。夫婦は資本主義の囚われ(借金漬け)なのだ。
ナチス政権成立寸前のベルリンの退廃を描く「デスペア」では、勤勉な労働者は姿を消し、生命保険会社の経営者がこううそぶく。ナチス党員、共産主義者、移民、首相、それらすべてにやがて死が訪れる。保険は政治と無縁で、算盤上、あらゆる存在が対等である……。この演説とそれを聞く人びとがうごめく室内のセットを縦横無尽に動き回り、あらゆる存在を対等に捉えるミヒャエル・バルハウスのカメラ。ファスビンダーの美学=政治学の極致がそこに見出される。