コラム

DCPRGからdCprGへ、自己更新で新章へ突入した菊地成孔の特殊部隊が5枚目のアルバムで描いたもの

DCPRGからdCprGへこれぞ真性の自己更新

撮影:埼玉泰史

 

「独裁」に対抗するための選択肢は「抵抗」と「亡命」である。

 ラテンアメリカ現代小説の研究者であり翻訳家でもある寺尾隆吉は『抵抗と亡命のスペイン語作家たち』(洛北出版)と題した共著の序文で以下のように書いている。

 「スペイン語圏の軍隊ほど「シビリアン・コントロール」と縁遠い組織は他にないかもしれない。エルナン・コルテスやフランシスコ・ピサロのような伝説化した征服者や、時代遅れの騎士ドン・キホーテの伝統を汲んでいるせいであろうか、スペイン語圏の軍人は往々にして一途な盲信に囚われやすく、武力を頼みに政治的圧力をかけずにはいられない」

 その状況は20世紀に入っても好転せず、帝国主義とファシズムに晒された戦争の世紀もなかばをすぎ、社会主義革命思想が起こるも、それもやがて賛成・反対両派が鋭く対立する混乱のなかで「最終的にほとんどいつも――左翼擁護の立場からであれ、反左翼の立場からであれ――専制的支配体制に行きついた」(前掲書)。

 「独裁」に対抗するための選択肢は「抵抗」と「亡命」である。戦うか否か。あるいは戦うか逃げるか。むしろ逃げながら戦うか? コルタサルしかりマルケスしかり、やりくちはそれをするひとの数ほどある。50年代末から70年代初頭にかけて、ラテンアメリカ世界で魔術的リアリズムが隆盛をきわめたのは政治と無縁ではない。キューバ革命(1959年)を発火点にカリブ海を南へくだった革命思想は希望と現実との隔たりをもたらし、その奇妙な状況下では現実を歪ませる想像力の鏡を求められ、ゆがんだ現実の鏡像は現実の不条理を強調しどこか寓話めいてくる。では音楽における抵抗はどうだったのか――を述べる前にいましばらく文学の話におつきあいいただくとして、チリの作家、ホセ・ドノソの1978年の大作『別荘』の翻訳書が出たのは刊行から40年ちかく経った2014年だった。寺尾隆吉の訳による『別荘』は昨年の海外文学のなかでもとりわけ評判だったのでご存知の方もおられよう。男、女、子ども、総勢55名の人物が入り乱れる血族のひと夏の出来事を描いた『別荘』はピノチトがアジェンデ政権を倒したクーデターを夢幻的に読み換えたもので、奇矯なひとたちばかりの作中でもひときわ印象的な、気狂いと見なされ塔に幽閉され、そこから逃れる(そう逃れるのだ)ものの、狂躁のなか蜂の巣にされる、一族の末娘の夫のアドリアノ・ゴマラはフォルクローレ歌手、ヴィクトル・ハラがモデルだ、とドソノ本人が語っている、と寺尾隆吉は訳者あとがきに記している。じっさいにヴィクトル・ハラは1973年9月11日に起こった件の政変のさなか捕まって蜂の巣になった。彼を殺した男は米国に逃れ(そう逃れたのだ)、のこされたハラの妻はクーデターから40年経った2013年、男を米国で提訴した。私はそれをWikipediaのハラのページのリンク先の動画ニュースで知った。ハラのページにはまた彼の代表曲として《耕す者の祈り》や《平和に生きる権利》があげてあった。ともに民衆歌であり抵抗歌である。後者はとくに多くの名演をうんだ名曲であることは音楽ファンなら知らないものはいない。ソウル・フラワー・ユニオンからシカラムータまで、グラウンド・ゼロの『Plays Standard』(97年)と題したスタンダード曲集の冒頭でも、大友良英はこの曲を篠田昌已の遺作とメドレー形式でとりあげていた。そしてそこでサックスをブローしていたのは、誰あろう、菊地成孔だった。 

撮影:埼玉泰史

 

『フランツ・カフカのアメリカ』から『フランツ・カフカの南アメリカ』へ

 菊地成孔がデートコース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデン(以下、DCPRG)をたちあげたのは『Plays Standard』から2年後の1999年だった。その2年後の、チリの政変と同じ日にニューヨークでは2機の航空機が世界貿易センタービルに突っ込んだ。9.11からイラク戦争へ、世界を覆った「戦争(状態)」をよそにDCPRGは活発な活動期にはいった。いや、まったく「よそに」などではない。「戦争」とそれが暗喩するものが菊地成孔の活動に斑模様の影を落としていたのは、《Catch 22》、《Playmate At Hanoi》といった代表曲、それらを収録した『Report From Iron Mountain』などの記号に症例のようにあらわれていた、といまさらいうのもヤボかもしれないが、あらためて聴き直すと、エレクトリック・マイルスを座標軸の交点に置いたポリリズムファンクの濃密な反復はたしかにある種の例外状態を想起させる。そればかりか、反復が仮構する加速度により、DCPRGはライヴ盤や企画盤を間に置きながら、2003年の『Structure Et Force(構造と力)』、2007年には『Franz Kafka's America(フランツ・カフカのアメリカ)』と精力的にアルバムを発表していく。その間、布陣は2000年代初頭の第1期にホーンセクションを追加し、第2期では14名にまで膨れあがっていった。『フランツ・カフカのアメリカ』は活動休止前のDCPRGの総決算であり、アメリカを訪れずアメリカを書いたカフカの『アメリカ(失踪者)』に仮託したタイトル通り、菊地成孔にとっては、アメリカを遠まきにしたまま空想とも妄想ともつかぬもので対象を描く試みだった。飛躍ぶくみのその行為を魔術的リアリズムになぞらえるのはさすがにムリがあるとしても、アメリカはそもそも、最初のアメリカ的な現代作曲家といわれるチャールズ・アイヴス(1874~1954)からして、その「アメリカ的」なるものさえ、伝統や伝承を受け継ぐというには空想めいていた。ヴァン・ダイク・パークスライ・クーダービル・フリゼールジム・オルーク、およそ10年前のフリーフォークのイメージソースだった「アメリカーナ」が、ほとんどユング的無意識を元にした架空のアメリカであるのは、アイヴスが健筆をふるった戦前にすでにそうだったのであり、もっといえば、アメリカという人工国家のなりたちからいって避けようもない。その耳で聴けば、『カフカのアメリカ』の《ジャングル・クルーズにうってつけの日》の、テーマをやがて混沌が覆い尽くす構成も、アイヴスの交響曲の悪夢的な音のおりかさなりに通じるものはなくもない。そうやって、DCPRGは複数のリズムの交錯でうまれるポリリズムから、要素どうしが反撥し合う異化効果へ、ほとんどモンタージュにちかい手法へと混沌と抽象の度合いを高めながら、『カフカのアメリカ』でアメリカというジャズの本場を音楽化したことで最初のミッションを完了したのだった。 

dCprG Franz Kafka's South Amerika~フランツ・カフカの南アメリカ~ TABOO/Village Records(2015)

 

DCPRG→dCprGへ

 『Franz Kafka’s South Ameriak(フランツ・カフカの南アメリカ)』は『アメリカ』から8年、途中活動休止期間をはさみ、2012年の復活作『Second Report From Iron Mountain USA』を経て、発表する5枚目のアルバムであり、DCPRGはこのアルバムでdCprGとふたたび改称するという、その理由は私はわからない。これ書いているいまもまだつらつら考えているのだけれどもやっぱりよくわからない。おいおい菊地成孔みずから説明されるだろうから待つほかないが『南アメリカ』でdCprGは新章にはいったのはまちがいない。というか、『第二次アイアンマウンテン報告』ではヒップホップという形式の影に隠れがちだった濁りを払った音がdCprGの基調に響きとなったことが『南アメリカ』であきらかになった。とくに鍵盤の音色の選択にそれは顕著で、レーガノミックスを主導したハリウッド出の新自由主義者、ロナルド・レーガンの名を冠した《Ronard Reagan》のイントロの和音の連打が象徴するように、本作の音づくりは空間性を捨象したデジタルな志向をもっている。70年代から80年代へ、と簡単に要約することはできないにしても、70'Sマイルスのクラスターな響きともミラーボールのきらびやかさともちがう参照点がそこではほのめかされており、それはつまりザヴィヌル的な、フュージョン的ななにかなのか、と私は簡単に要約できないといいながらそういってしまったが、だからといって、『南アメリカ』はチマタを賑わすフュージョン・リヴァイヴァルに与するものではない。ロバート・グラスパーはもとより、陸続とあわわれた後発ともちがうトーンを前景に、《Ronard Reagan》は(彼らにはめずらしい)レゲエを彷彿させるセクションと、大村孝佳のメタリックなギター・ソロから高井汐人類家心平の2管のソロを経て、カーターの失政により影響力を失った南米へレーガンの米国が再度攻勢をしかけるように南進する。そして《Verse1(韻文1)》と題したみじかいインタールードのあとにあわれた南米大陸は《Junta(軍事政権)》の支配する地だった。菊地成孔の長年の伴奏者である高見一樹を作曲者にクレジットしたこの曲はパーカッションの16分が装飾するラテン・ファンクだが、ここにもフィーチャーされた大村のギター、終始通奏低音的に不穏さをかもす鍵盤のノート、それとともに呪文のようにくりかえされる「過去 黒は真っ当に数えられず 美の名として呼ばれもせず」と唱和するコーラス、これらの要素がかもすムードは、同じく南米をモチーフとするペペ・トルメント・アスカラールの優雅なそれとは似ても似つかない、異形の顔つきである。あるいはそれは前作でみせた混血性のあらたな、ほとんどSF的といってもいいありかたなのかもしれず、それを描く舞台は、私たちの暮らす土地から地球上でもっとも遠い場所でなければなかった。衒学的な言葉遊びといってすませられないものがそこにはある。そもそもカフカの夢想が20世紀初頭のアメリカを超えた、現代の機構を把捉したように、菊地成孔の音楽的な想像力も人工知能の先読み機能では捉えられない。それに私は『フランツ・カフカの南アメリカ』を聴きながらこうも夢想したのだ、カフカの『アメリカ(失踪者)』で、絶筆となった終章で主人公カール・ロスマンの乗り込んだ列車は「ゴンドワナ急行」だったのではあるまいか。それは《pLsF(全ラテン防衛軍)》の配下にある《Immigrant’s Animation(移民のアニメ)》の大陸へ乗客を運ぶことになるだろう。聴き手はひとたびジョインしてしまえば、途中下車はかなわない。そう逃れられない。

【参考動画】DCPRGによる2014年のツアー予告映像

 

LIVE INFORMATION

dCprG goes on LEVEL XXX「Franz Kafka's South Amerika」tour

○7/15 (水) 19:00開演 会場:新宿BLAZE
○7/16 (木) 19:00開演 会場:仙台・darwin
○7/22 (水) 19:00開演 会場:名古屋 CLUB QUATTRO
○7/23 (木) 19:00開演 会場:大阪・umeda AKASO
出演:dCprG   

www.kikuchinaruyoshi.net/

タグ
TOWER DOORS