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先導者の到達点と分岐点

 舞台の三辺をかこむビルボードライブ東京の2階の私の位置は下手から上手へ横ざまに据えたドラムセットの正面にあたるので、やたらとマーク・コレンバーグに目がいってしまうのは仕方ない。ひたすらリズムを刻み、グルーヴの基軸にたいし自在に前後しながら、コレンバーグはときに激しくときにすこしだけ激しく、というか細やかなぬきさしで音の場をつくり、その右に視線を転じるとアール・トラヴィスはもくもくとリズムを刻み、上手でカルテットを指揮するごとくみやるロバート・グラスパーの左前、中央よりにはショルダー・キーボードとサックス類をもちかえるケーシー・ベンジャミンがオートチューナブルな歌声で見事なほど真っ白な歯列をのぞかせ歌いあげる。ロバート・グラスパー・エクスペリメントのこのたびの来日公演は、すでに大御所の風格ただよう彼らの去年につづく来日公演だが、何度目であっても凱旋公演めいているのはロバート・グラスパーがジャズの現在のまごうことなき中心にとどまりつづけているからにちがいない。

 おそらく私はいまの彼らに未知より完成度を求めている。六本木へ向かう道々そう気づいた。家を出る前にピアノ・トリオによる、2007年の『In My Element』以来の新作『Covered』には耳をとおしていた。イントロ、2曲の新曲とセルフ・カヴァーをのぞけば、レディオヘッドジョニ・ミッチェルビラルミュージック・ソウルチャイルドといったロック~R&B~ヒップホップのカヴァーで構成したこのアルバムは、2台の『Black Radio』での収穫をふまえたうえで、最小の単位をいかに最大限に響かせるか、どジャズの土俵であえてそれをこころみたものである。メンバーはヴィセンテ・アーチャー(ベース)とダミオン・リード(ドラムス)と、これまでのピアノ・トリオ作品と変わらないが、作風は『Black Radio』のほうへ大きく舵を切った、といえれば話は簡単だが、グラスパーはアコースティック・アンサンブルに周到にこれまでの経験を注ぎこみ、まことに端正にしあげている。もともと手数の多いピアニストではないとしても、『Covered』には泰然自若な抑制が利いており、全体をみわたす総監督の視点は、R&Bプロジェクトのような出入りの多くない小編成でも適用可能で、かつ、彼はそれが自身ふくめ演奏者の資質を引き出すことを、頭でなく身体でわかっている。この風とおしのよさにはジャズ以外を題材にしたとっつきやすさにあるが、啓蒙の色もなくはない。啓蒙ということばが教条的にすぎるなら、彼が新作で客演したケンドリック・ラマーを形容する常套句を借りて、いかに“Conscious”でありつづけるかといいかえてもいい。ジャズでそれを説得的にうちだせるのは彼をおいてほかにみあたらない。会場を埋めつくしたお客さんもきっとそれを頭でなく直感でわかっているのだろう、エクスペリメントのスリリングなプレイにさえ隣の妙齢の中年女性は身体を揺すっておられる。私は中年がノリノリだとはしたないとたしなめたいのではない。ひさしくそのような情景にふれてこなかったのだ。

【参考動画】ロバート・グラスパーの2015年作『Covered』収録曲“The Worst”のパフォーマンス

 

 そんなことをいえば、東京藝術劇場ほどのキャパシティの会場にもついぞご無沙汰だった。この公演の翌週、ロバート・グラスパーは西本智実が指揮するイルミナートフィルと東京藝術劇場で共演した。オーケストラ単独によるリムスキー・コルサコフの《スペイン奇想曲》にはじまり、グラスパーをソリストに迎えた《Jesus Children》のオーケストラ・ヴァージョン、第2部のエクスペリメントとイルミナートフィルの共演では、天井の高いコンサートホールのライヴな音響ゆえ、電化楽器と生楽器のダイナミクスの差がきわだってしまったが、それでも、最後に演奏した《I Stand Alone》のイントロではざわめきが、流麗なストリングスがかぶさったときにどよめきがおきたことは、ロバート・グラスパーの歩みが、ジャズを越えたポピュラーな領分にはいったことをうかがわせる。期待に応え完成度を高めるのか、私たちを次の挑戦へ導くのか、先導者のコンシャスネスを問われる岐路にいま彼はさしかかっているのではないか。