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はっぴいえんどのライヴ秘話

長門さんは73年、はっぴいえんどが所属していた事務所=風都市に入社。会社が解散した後は、茂さんが在籍したキャラメル・ママ~ティン・パン・アレーのマネージャーを務めることになり、2人の関係性はより深まっていく。

鈴木「彼が直接担当することはなかったけど、同じ仲間というかね、そういう意識が強い。その後に長門くんはレコード屋さんへ行って。レコードをジャケ買いするじゃないですか。でもやっぱり中身を知りたいから、それを教えてくれるからありがたかった」

長門「ウチのお店では細野(晴臣)さんが先に来ていて、バッタリ会うことがよくあったね。坂本(龍一)が先に来てたり」

鈴木「レコードをかけてくれたりしてね。知らない店に行くとなかなか頼めないから。もっと昔はあったんだけどね。渋谷のヤマハには視聴室があって、そこでレコードが聴けたんですよ。いい時代だったね」

長門「それはアメリカのスタイル。ブースがあって一人一人聴けるようになってる。ああいう大きな企業はそういうこともできるんだけどね。

パイドパイパーの場合は10枚仕入れて、1枚封を開けてしまったら利益はパー。でもいいレコードをお客さんに紹介したいから、スタッフは自腹で買うわけ。それを試聴盤として使っていた。そんななかからパイドパイパー独自のベストセラーが生まれていったんだよ」

長門「75年1月にハックルバックが動き出すんだけど、そのときはまだ名前は付いてなかったかな。あの名前はいつ決めたの?」

鈴木「えっと、なんとなく。自分でも憶えてないんだけど」

長門「チャビー・チェッカーの“The Hucklebuck”から採ったんだよね? 告知では〈鈴木茂バンド〉とかになってたんだけど。で、その年の11月には解散コンサートがある」

鈴木「えっ、ウソ、そんなに短かったの!? 憶えてない(笑)」

長門「そうだよ。〈ティン・パン・ツアー〉の30数か所を入れてトータル50数本やってる」

鈴木「東京だとLOFT、関西だと拾得といったライヴハウス、そのほかは大学の学園祭で結構やったね。あとたまに日比谷野音などでやっていた、日本のロックのフォーク・コンサートみたいな企画モノに出たり」

長門「あの頃はフェスとかがないからね。年に2、3本ある程度。で、50数本の現場にだいたい僕が付いてたわけ。あのときは特殊なセッティングだったよね」

鈴木「ピーヴィーというアンプを使ってたね」

長門「で、モニター用にフェンダーのツイン・リヴァーブを使ってた」

鈴木「あれ、そうだったかな。ザ・ゴールデン・カップスのような有名なバンドはビンソンのヴォーカル・アンプとかを持ってるんだけど、(自分の周りは)ほとんど誰も持ってなくて。いまのようなPAが定着してなかったんだよね。当時はお客さん側に向いてるスピーカーと、ミュージシャンのサイドに置いてるモニターだけだったんですよ。だから自分の声なんてほとんど聴こえない。『BAND WAGON』を出した75年頃はそんな感じ。よくやってたよね、みんな。

大変だったのは学園祭。ライヴハウスは小さいからある程度自分の音は聴こえるんだけど、会場が外や講堂だから」

長門「だからギター・アンプを斜めに倒して、自分に向けて使っていたんだよ。はっぴいえんどのライヴを長崎でやったときも、当時PAという言葉を誰も知らなかった。で、あの頃のはっぴいえんどは、レコードはいいけどライヴは良くないと言われてたんだけど、それはPAの問題が大いに関係していると思う。PAはあったにせよ、エンジニアが未熟だったりして」

鈴木「それもあるし、ライヴの数がそんなに多くなかったこともある。いわゆる箱バンって呼ばれる人たちはしょっちゅう音を出してるから巧くなるわけ。でも僕たちは仕事のときは楽屋で待ち合わせして、そのままライヴやるという形がほとんどだったから(笑)、そりゃバラけるときもあったよ。

ただ、インスピレーションというかその場の閃きによって作り出すフレーズとかに関しては自信があったけどね。でも自信が結果に繋がらないことが多々あったのも事実で、そういうことから悪い評判が立ってしまったのかも。

あと演奏よりも、歌の音程が悪かったりしたことがあったからなのかもしれない。自分の声が聴きづらかったりするとどうしてもうわずったりしてしまうからね。でも演奏面でのどうしようもないミスはそんなになかったと思う」

長門「はっぴいえんどはライヴごとにアレンジが変わっていたもんね」

鈴木「そうそうそう。大滝(詠一)さんが“はいからはくち”のアレンジをしょっちゅう変えるわけ。でもそれがおもしろいんだよね。今回はモビー・グレイプのああいう感じで、あるいはバッファロー・スプリングフィールドのああいう感じでやりたい、とお互いの共通認識を元に話すんだけど、たぶんこういう感じだろうな……とこちらもすぐに反応してね。それを楽屋で知るときもあれば、ライヴに向かう電車の中で聞かされることもある。ほとんど謎かけをやっているみたいだったよ。大滝さんはそういうやりとりを楽しんでいたみたい。細野さんも、それってこういうことか?とアイデアを膨らませたりしながらやってましたよ。多少のミスはあっても、イメージした形は実現するわけ。

一言二言あって、それをイメージ通りの音にまとめていくプロセスは、ある意味で職人的な仕事とも言えたよね。僕たちの曲はそれほど使っているコードの数が多くないから難しくない。シンプルなロックが多かったから、演奏に集中できたというか」

長門「長崎のライヴの後に3本くらいやって解散しちゃったんだよね」

鈴木「うん。はっぴいえんどでは3枚のレコードを出した。2枚目の『風街ろまん』を作るときに曲を練習しようってことで、合歓の里で1週間ほど合宿をやったの。でも録音のときには僕が参加しない曲があったりした。例えば細野さんの“風をあつめて”。あれは細野さんと松本(隆)さんが2人だけで録ってる。どうやってやるか悩んでいる間に、僕と大滝さんが帰っちゃってたのかな……よく憶えてないんだけど(笑)、とにかくあのアルバムのときは4人のまとまりがとてもいい状態だったと思うんだけど、直後から徐々に終わりに向かって進んでいったというか。

その後も何回かライヴをやってるんだけど、細野さんがベースを弾きながらだと歌えない、ってことで野地義行くんがサポートでベースを弾いたり、鈴木慶一くんがピアノで入ったり、人数が増えることも多くなっていった。で、4人集まらなければならないときに4人が揃わなかったりして。そういうことが続いていって、このまま活動していくのは難しいね、ということで解散することになった。

その後にレコード会社と出版会社の人が、ご褒美も兼ねて〈アメリカで録音してみる?〉と話を持ってきて、もう一枚『HAPPY END』を作ることになる。なんたって憧れの地でやれるんだからね。スタジオやエンジニアってどんなんだろう?って興味津々で。でも、そういう(解散に至る)経緯があってのレコーディングだったから、スタジオに入ったときにはみんな下向いて、ブス~っとしていてね」

長門「ハハハハ(笑)」

鈴木「そしたらエンジニアが怒り出した。〈みんなが笑わないなら俺は仕事やんないぞ!〉って(笑)。最初は〈笑え!〉ってところから始まった(笑)。でもこのアメリカ行きが自分にとってものすごく大きな出来事だったよ。シンコーミュージックのロサンゼルス支部で働いていたキャシー・カイザーという女性がいて、ヴァン・ダイク・パークスやリトル・フィートのマネージャーやらいろんなミュージシャンを知っていたんだ。あとフランク・ザッパの家を案内してもらったりね」