(左から)田中“hally”治久、中潟憲雄、Quarta 330
取材協力:Red Bull Studios Tokyo

80年代後半から90年代半ばの日本で生み出されたゲーム音楽の独創性に注目したコンピレーション・アルバム、『Diggin In The Carts』。Red Bull Music Academyの同名ドキュメンタリーに端を発する同作の選曲は、電子音楽シーンの最先端を行くロンドンのレーベルであるハイパーダブを主宰するコード9、そして日本のゲーム・ミュージックに精通し、ドキュメンタリーの監修を務めたニック・デュワイヤーが務めている。

『Diggin In The Carts』のねらいは、歴史に埋もれた過去のゲーム音楽を現代的な視点から掘り返し、その新たな魅力を露わにしようとすることにある。そのねらいを、ゲーム音楽とチップチューンの新旧をよく知る中潟憲雄とQuarta 330、そして田中“hally”治久の対話によって改めてあきらかにしようと試みたのが、Red Bull Studios Tokyoでおこなわれた今回の鼎談だ。

作曲家にしてゲームクリエイターでもある中潟憲雄は、ナムコやメルダックなどで「ファミスタ(プロ野球ファミリースタジアム)」(86年)や「暴れん坊天狗」(90年)を筆頭に、多くのゲーム制作に携わってきた。今年、30周年を記念するCDもリリースされた傑作「源平討魔伝」(86年)の楽曲は『Diggin In The Carts』の3曲目に収録されている。現在は自身のゲーム制作会社であるdIGIFLOYDを経営しつつ、音楽活動を再び活発化させつつあり、「平安京エイリアン」(79年)のリメイクであるファミコン互換機用カセット「NEO平安京エイリアン」とCD作品『NEO平安京エイリアン BGM ReMIX』を発表したばかりだ。

その中潟に、80~90年代の制作現場の裏話や現在のチップチューン・シーンへの思いを訊くQuarta 330は、チップチューンとダブステップ、そしてダブステップ以降のベース・ミュージックとを混交させた独自の音楽をEP『Pixelated』として昇華させ、今年の1月にハイパーダブからリリース。三浦大知“EXCITE”のリミックスも手掛けるなど、国内外でいまもっとも注目を集めるエレクトロニック・ミュージックのプロデューサーのひとりだ。

そして今回の鼎談には、大著「チップチューンのすべて All About Chiptune」を5月に上梓したゲーム音楽史の第一人者hallyも特別参加。奇しくもおなじ2017年に活動の集大成と言える作品を発表した3者が、日本におけるゲーム音楽の過去と現在、そして未来を語った。

VARIOUS ARTISTS 『Diggin In The Carts』 Hyperdub/BEAT(2017)

〈アウト〉〈セーフ〉と聞こえる音を作ってくれ!

Quarta 330「中潟さんが83年にナムコに入社してゲーム音楽を制作することになった経緯はどのようなものなんですか?」

中潟憲雄「僕はもともと、郷里である福島県に帰って教員になると親と約束して東京に出て来たんです。なので、教育実習もやりました。実習をやると大学4年はほぼ潰れるんですよね。そうしたら〈就職戦線〉もすべて終わっていた(笑)。焦りましたね。教員という仕事は好きでしたが、一方、音楽でやっていきたいという思いが強くあったんです。それで音楽業界も回ったのですが〈一昨日来てください〉と門前払いで(笑)。

あるとき、大学の同級生が〈ナムコはおもしろい会社だから受けてみなよ〉と言ってくれた。当時のナムコは〈就職戦線〉とはいっさい関係なく採用をやっていて、〈おもしろい人材を取る〉というポリシーの会社だったんです。それで、デモテープを持ってナムコを受けに行きました。僕は映画研究会で8ミリフィルムのSF映画も撮っていたので、その作品も持って行って」

Quarta 330「多才ですね!」

中潟「いやいや(笑)。それで、なにが良かったのかはわからないけど採用通知が来ました」

hally「中潟さんは入社当時、サウンド担当ではなかったんですよね?」

中潟「ええ。ナムコはもともとアミューズメント会社で、デパートの屋上にある遊園地の乗り物などを作っていた中村製作所という会社でした。その名残で、ロボットがバンドでミュージカルをやる〈ピクパク(PICPAC)〉(84年)という企画が社運を賭けたビッグ・プロジェクトとしてあり、僕はそこに入れられたんです。

入社後1年間〈ピクパク〉に携わったのですが、既にハード面はほぼ出来上がっていたので、シナリオや音楽といったソフトウェア面を担当しました。大貫妙子さんやEPOさんのようなポップ・シンガーたちにメインのテーマ曲を作っていただいて、その他の曲は僕が書いた。

その後、先輩の慶野由利子さんが産休に入られたので、ゲーム開発・制作の部署へ移りました。当時の音楽制作環境というのは16進数直打ちのプログラミングで作っていくので、最初はものすごく戸惑いがありましたね」

※作曲家。代表作に「ディグダウグ」「ゼビウス」など

ピクパクのテーマ”(作詞・EPO、作曲・清水信之)と“ロボットマーチ”(作詞作曲・大貫妙子

Quarta 330「はじめに楽譜を書いて、それを打ち込んでいくんですか?」

中潟「楽譜を書く暇もないんです(笑)。特にナムコットというファミコン向けブランドの事業部が立ち上がってからは地獄でした。それからはもう、会社に寝袋で泊まり込みですよ。1週間くらい泊まっていると体が臭くなってくるので、会社に風呂道具を置いて蒲田の銭湯に行っていました。当時、社内に〈音屋さん〉は僕と小沢純子※1さんの2人しかいなかった。そこで、〈どうしようもないから手伝ってくれない?〉と企画部にいた同期の川田宏行※2くんを誘った。それでようやく3人。でも、まだ全然足りなかったので、『バベルの塔』(86年)のドット絵のアルバイトで来ていた細江慎治※3くんが〈俺、バンドやってるんすよ〉と言うので誘ったんだよね」

※1 作曲家。代表作に「ドルアーガの塔」「スカイキッド」など
※2 作曲家。代表作に「スターラスター」「妖怪道中記」「ワルキューレの伝説」など
※3 作曲家。株式会社スーパースィープ代表取締役。代表作に「リッジレーサー」「カスタムロボ」など

hally「細江さんも川田さんも、もともと音楽制作をやるつもりではなかったのに、引っ張って来られたんですね(笑)」

Quarta 330「まるで最近のスタートアップ企業みたいですね」

中潟「『バベルの塔』ではマップ作成からデバッグまで、やれることはなんでもやりましたよ。『パックランド』や『バトルシティー』(共に85年)はデバッグを死ぬほどやりました。でも、難しくてなかなか最後まで行かないんですよね、これが(笑)」

※開発中のプログラムのバグや欠陥を発見するための作業。ゲームにおいてはテスト・プレイをし、発見した不具合箇所を開発にフィードバックする

hally「サウンドの方がデバッグもやっていたというのは当時のゲーム業界ならではですね」

中潟「黎明期なのでゲーム制作にどれほどの時間がかかり、どれだけの人的リソースが必要なのかを上層部も把握しきれていなかったんです。〈いついつまでに、とりあえず何かやってよ!〉〈あ……はい……〉みたいなノリ(笑)。

『ファミスタ』のときは〈アウト〉〈セーフ〉といった声を出せないからPSGで〈アウト〉〈セーフ〉と聞こえる音を作ってくれっていうすっごい難題を企画者から吹っかけられて(笑)。でも、当時の開発現場って、みんなそうでしたから」

※単純な矩形波とノイズしか出せない電子回路。ファミコンの音として有名

「プロ野球ファミリースタジアム」プレイ動画

hally「中潟さんはファミコン版の『源平討魔伝』をご自身でやったことを最近まで忘れていたんですよね(笑)」

中潟「そうです(笑)。当時は本当に忙しくて……自分で忙しくしていたのもあるんですが。ゲーム音楽の制作だけでは満足できないという思いもあったんです。〈自分はこういう思いで音楽を作っている〉ということを何かしらの形で表現したかった。

当時、ナムコが提供していたTBSのラジオ番組〈ラジアメ(ラジオはアメリカン)〉というのがあって、その制作会社の社長がナムコの中村雅哉社長の弟さんである中村歓さんだったんですね。その歓社長にお願いしてビクター音楽産業を紹介していただき、『ビデオ・ゲーム・グラフィティ』(86年)というゲーム音楽をアレンジしたレコードを作りました」

Quarta 330「作った音楽を、きちんとした記録としてもレコードにして残したかったんですね」

中潟「ええ。一方、ライヴでゲーム音楽を聴いてもらいたいという思いもありました。自分でシンセサイザーを担いで札幌から九州まで赴き、〈ラジアメ〉の公開録音で生演奏をした。

加えて、社内に映画制作を検討する〈映像プロジェクト〉が発足したことをきっかけに、『源平討魔伝』のプロモーション・ビデオを作ろうという企画も立ち上げて、その当時は一介のイラストレーターだった、のちに映画監督となる雨宮慶太さんにお願いしたんです。そこから『未来忍者』の映画製作(『未来忍者 慶雲機忍外伝』、88年)へと結びついていく。入社数年の若造が勝手にそんなことをやっていた(笑)。

でも、そういうことを自由にやらせてもらえる懐の深さが当時のナムコにはありました。いま考えると、本当に素晴らしい会社だったと思います」

 

「暴れん坊天狗」ではPCM音源だけで音楽を作ったんです(笑)

Quarta 330「中潟さんの代表作である『源平討魔伝』はアーケード版のリリースが86年ですよね。僕がはじめて触れたのはファミリーコンピュータ版(88年)で、当時子供だった僕にとってはあのサウンドやイラストは怖すぎました(笑)。キャラクターの描き込みが非常に細かく、雑魚キャラの〈餓鬼〉ですら直視できなかったんです(笑)」

中潟「そうなんだ(笑)。ナムコはパックマンやマッピーのようなかわいいキャラクターがメインだったのに、ダーク・ヒーローものの『源平討魔伝』を僕らが勝手に作り出してしまった。当時のナムコ・ファンからすればすごく違和感があったんじゃないかと思います」

『源平討魔伝』(アーケード版)プレイ動画

Quarta 330「なるほど(笑)。アーケード版『源平討魔伝』の音源はFM音源ですよね」

周波数変調を利用した電子音源。ヤマハが1983年に発売したシンセサイザー、DX7に搭載されたことで一世を風靡した。これまでの音源と比べて多彩な音色が作れたため画期的だった

中潟「そうです。FMは画期的な音源でした。それまでナムコのシステム基板は波形メモリ音源※1で……それがまた、ナムコ伝統の音色(おんしょく)でもあったのですが。慶野さんや大野木宣幸※2さんのような先輩方の作品がその代表格ですよね。

僕が『源平討魔伝』と『サンダーセプター』(86年)を制作しているときに、ヤマハのFMチップが乗ることになった。でも、音源チップが届いたからといって、すぐに音を出せるわけではない。解析をしながら音色エディターやサウンド・ツールを自前で作らないといけなかったので。サウンド・プログラマーと話し合って仕様を決めながら作っていたので、最初はほとんど手探り状態でした」

※1 PSG音源と似た原理の音源。PSG音源よりも豊かな音色が作れた。ナムコは独自の波形メモリ音源を開発していたことで有名
※2 作曲家。代表作に「ラリーX」「ニューラリーX」「ギャラガ」「マッピー」など

Quarta 330「アーケードからファミコンへの移植をするにあたって、FM音源の煌びやかな音色もそうですし、同時発音数の面から鑑みても、PSGに置き換えるという作業はどの音を選ぶのかという点で大変だったんじゃないですか?」

中潟「ファミコンは3音+ノイズしか出せませんから、相当悩みましたね。3つの音だけで和声を組むのはなかなか困難でした」

hally「中潟さんはファミコン時代が長く、『バベルの塔』のようなプリミティヴな3音しか出せない時代から拡張音源を駆使する『メタルスレイダーグローリー』(91年)まで、音源を柔軟に使いこなせるようにサウンド・ドライバーが進化していく過程をご存知なんですよね」

中潟「『メタルスレイダーグローリー』や『暴れん坊天狗』はファミコン時代の最後のほうですね。PCM音源が使えるようになったというのは大きかった」

※録音した音を再生することができるサンプリング音源のひとつ

hally「〈ファミコンの音を普通に使っているだけでは悔しい〉という思いがあったんですよね」

中潟「もちろんそうです。他ではやっていないことをやりたかった。だから、『暴れん坊天狗』ではPCM音源だけで音楽を作るっていうことにトライしたんです(笑)」

「暴れん坊天狗」プレイ動画