After The Dance

坂本慎太郎のニュー・アルバムはひたすら心地良く響く――サウンドだけ聴けば。そのどこまでもゆるやかなグルーヴに身を委ねた時、じわじわと頭をもたげてくるのは寡黙な警告。淡々と綴られる終末感の奥に潜むものは、果たして……

坂本慎太郎 ナマで踊ろう zelone(2014)

 

途方に暮れた後で〈さて〉と腰を上げる意志

 メイヤー・ホーソーンと互いの曲をカヴァーした7インチのリリースなど、国内だけでなく海外からも熱い注目を受けるシンガー・ソングライターの3年ぶりとなる2枚目のソロ作は、いきなり女性の歌声から始まるオープニングにまず意表を突かれてしまう。ゆらゆら帝国解散後、思いつくままにコンガを手にして生まれたスウィートでアダルトなダンス・アルバムが前作だったとしたら、今作は、全体がひとつのテーマ〈人類滅亡後の地球〉を元にしたコンセプト作となっている点が目を引く。バンジョーやスティール・ギターが軽快に鳴り響く“あなたもロボットになれる”を筆頭に、多彩な楽器やムシ声コーラスを用いた洒落たアレンジによるバンド・サウンドが、終末/虚無感を淡々と綴る坂本の言葉(いまの日本に言及したと思しきフレーズがあちこちに)と不気味なコントラストを描いている。

 ただし〈終末〉といっても、完全なる厭世とは少し異なるニュアンスが含まれているのが興味深い。“もうやめた”という曲の後に“やめられないなぜか”と続き、最後の“この世はもっと素敵なはず”が〈ぶち壊せ/この世はもっと素敵なはず〉なるコール&レスポンスで締め括られるように、世界の終わりの風景にひとしきり途方に暮れた後で、〈さて〉と腰を上げる意志の存在が仄めかされている。それが表題の〈ナマ(生)〉に繋がっているのかも。どこか細野晴臣のソロ・デビュー作『HOSONO HOUSE』にも通じる、軽やかで芯のある佇まいの〈坂本流ポップ〉が示された逸品だ。 *佐藤一道


手塚治虫の漫画のようなアルバム

 ソロに転じてからの坂本慎太郎は、ソウル、ディスコ、ムード・ミュージック、ラテン音楽など、一定の心地良さを醸しながらも、聴き手に共有を強いないようなサウンドに執心するようになっている。それは何かと一体感を強要しがちな近年の(日本の)ロックの在り方に対する抵抗であり、ひいては皆が同じ行動を取るようになっている不気味な現代社会への警告を伝えるものでもあるだろう。

 そんな坂本なりの寡黙な啓発が前作以上に危機感ある警鐘となって鳴らされたのが、この2枚目のソロ作『ナマで踊ろう』だ。少女(これまでの坂本作品にも参加したことがある中村宗一郎の愛娘)が歌った唱歌のような“未来の子守唄”から、ハワイアン調のスティール・ギターが響く“この世はもっと素敵なはず”まで、どの曲もある種の緩いムードに覆われている。ドラムスに菅沼雄一、ベースにAYA(OOIOO他)を迎えてトリオで録音されてはいるが、いわゆるロック的なバンド感は皆無で、曲だけ取り出せばハワイあたりのホテルのロビーでかかっていそうな生暖かさだ。なのに、歌詞は個人的な視点を見失った現代人、表情なき現代社会に向けられたもの。サウンドだけで言えば、ラウンジで何となく鳴っているような、子供でも反応できるようなポップスである。でも、そんな雰囲気のなかからファシズムへの助走を警告するかのようなメッセージがヌルッと放たれるこの不気味さたるや! こんな手塚治虫漫画のようなポップスが他にあるか!? *岡村詩野