ゆるやかな営み
そうか! そういうことだったのか!と、この映画を見始めて妙に納得してしまうと同時に自分自身の不明を恥じてしまったのだが、そこの部分も本誌の読者すべてにすんなりと共有できるわけではないと思うけど、まずはそこから書くべきなんだろう。
このドキュメンタリーは、大手メディアや経済界あるいは政界的なものからのメッセージを御涙頂戴的なものでくるんだ「震災・復興」ものではない。そこをはっきりまずは書いておこう。欄外にも情報として書かれるだろうが、製作著作は日本労働者協同組合(ワーカーズコープ)連合センター事業団、配給を一般社団法人 日本社会連帯機構という団体がおこなっている、団体の、あるいは「協同労働」というあり方自体のある種のプロモーション、誤解をおそれずにいえばプロパガンダ作品である。え!? プロモーションとプロパガンダは違うでしょ、とか、どっちにしろそんな作品は見ないよと言わずに見てほしいと言わなければならないのが哀しいところなんだけど。
さて、私が納得しながら同時に不明を恥じたのは、こういう団体が東北の被災地の「その後」の日常のなかで機能しているということを知らなかったこともある。そして、正規・非正規という区別もなく、労働者がすべて共同経営者である(経営の責任を負う)という「協同労働」という考え方・あり方や団体についての開巻早々の説明の部分で、「日本労働者協同組合」が「失対」(失業対策)労働に従事する労働者たちの組合として始まったということだ。
「シッタイ」を生々しく知っている人たちも既に少なくなっているかもしれないが、私たちの世代で、それも広島市内で子ども時代を過ごした人たちは、公園の清掃などをおこなっている人たちとして記憶しているだろうし、これまた恥ずかしい話だけど、「失対ってどうなったんだろう?」などと話すこと自体もリアルタイムでもあるわけだ。
正直な話、知ってはいても知らなかった「失対」の歴史が持続し、震災後の東北で息づいている。「復興」ということばに、私は強烈なうさんくささを感じている。災害便乗型資本主義を正当化させるこの日本語特有の翻訳語ということもある。しかし、もし、語の正しい使い方として「復興」ということばを使うとしたら、むしろ、この映画が記録しているような営みこそが「復興」なのかもしれないとも感じた。
なぜ、映像を、ドキュメンタリーを見るか。そばにはいない人たちの、顔を見て語りを聞くためだ。さきに、プロモーション/プロパガンダみたいな話をしたが、しかし、この作品は短い時間のなかに、平坦ではない営みのあり方にも丁寧にふれている。そのゆるやかさこそがまさに人の営みなのだ。
映画「Workers 被災地に起つ」
監督:森康行
ナレーター:山根基世
配給:一般社団法人 日本社会連帯機構(2018年 日本 89分)
◎10/20(土)より、東京ポレポレ東中野にて劇場公開決定! ほか全国順次
workers2-movie.roukyou.gr.jp