何ものにも縛られない自在な歌唱法を操る中村佳穂の新作は、時流も捉えた音作りによって歌の強度と深度を増した傑作に。これを聴かずして2018年は終われない!
やっぱり歌を歌いたくて
ピアノを弾きながら、現行のR&Bやトラップ以降のフロウも歌いこなす新世代のシンガー・ソングライター——中村佳穂のことを簡単に説明するならば、そんなキャッチコピーが思い浮かぶ。2017年にはtofubeats『FANTASY CLUB』に参加。今年に入ってからはKan Sanoとの共演曲“eye to eye”も話題になるなど、着実にその名を広めてきた彼女だが、いよいよ完成した新作『AINOU』には、決して単純なキャッチコピーだけでは説明しきれない音楽世界が広がっている。
92年に京都で生まれた彼女が初めてピアノに触れたのは、わずか2歳のとき。両親共に教師という厳格な家庭で育ち、自然とピアノを弾くようになったという。
「歌うことも好きだったので、高校に入ってからは誰に聴かせるわけでもなく、槇原敬之やポルノグラフィティの曲をコピーしてましたね。音楽の道に進むか美術の道に進むか迷ってたんですが、美大を受験して合否の結果が出はじめた頃に、やっぱり歌を歌いたくなっちゃって。それで1年浪人して大学に入り直したあと、ライヴハウスのオープンマイクで音楽活動を始めました」。
大学に通うかたわら、中村はオープンマイクの現場で年間100回以上のパフォーマンスを行うようになる。彼女の活動を支えていたのは、〈歌を歌いたい〉という極めて純粋な衝動だった。
「18歳のとき、〈歌を歌うこと〉を芯にして生きていこうと決めたんです。歌に対して子供の頃から憧れのようなものがあったんでしょうね。〈音楽で有名になりたい〉という気持ちはまったくなかったです」。
現在の中村は、シンガーであると同時に、スキャットともヴォイス・パーカッションともつかない歌唱を繰り出す、いわば〈声を使ったパフォーマー〉という一面も持つ。その影響源を問うと、少々意外な名前が出てきた。
「母が音楽好きで、よく家でマンハッタン・トランスファーやアル・ジャロウを聴いてたんですよ。七尾旅人さんや大橋トリオはリビングにあった流しっぱなしのラジオで知りました。フレッド・アステアも母が教えてくれたし、すごく衝撃的でした。アル・ジャロウの若いときの“Take Five”の動画はYouTubeで何百回観たかわからないぐらい。自分のなかに刷り込まれている部分はあると思います」。
数作のリリースを経て、2016年には〈フジロック〉に初出演。スティーヴ エトウと共に即興演奏を採り入れたライヴ・パフォーマンスも話題を集めた。同年12月にはファースト・アルバム『リピー塔がたつ』を発表。各地でライヴを重ねるなかで出会った仲間たちを一挙に集め、大学時代の4年間を総括する内容ともなったこの作品には、大学時代の講師であるBOSE(スチャダラパー)や高野寛も参加している。
そうしたなか、荒木正比呂(キーボード)や深谷雄一(ドラムス)など、後に音楽的なパートナーとなるメンバーとの活動も本格化。彼らはエレクトロニカ的な要素も持つポップ・ユニット、レミ街の一員であるプレイヤーだ。
「荒木さんたちは打ち込みも含む繊細な音楽をやっていて、それまで私がライヴの場などで知り合った音楽家とはちょっとヴェクトルが違ったんです。そういう荒木さんたちと一緒に音楽をやってみたかったし、私の音楽を解釈してほしいと思ったんですね。それで〈私と一緒に時間をかけて音楽を作っていただけませんか?〉とお願いしたんです」。
私は知ってるの
2016年春、中村と荒木たちの共同作業は基本的なコミュニケーションを取ることから始まった。
「寝食を共にしながら話し合いを続けたんです。音楽を作るうえではそういう無駄とも思える時間を過ごすことが重要だと思ってたんですね。そこから制作作業に入って、そのうち〈これはいいな〉と思えるフレーズが少しずつ溜まってきたので、その欠片だけを持ち帰って、また日を改めて集まる。最初の1年間はそういうことを続けていました」。
中村はそうあたりまえのように話すが、対話から始めたというのだから、実に根気のいる作業だ。「荒木さんたちには〈アルバムが完成するまでに2年はかかると思うんです〉と言ってたんですが、最終的には2年半かかりました」と彼女は笑う。
そんな『AINOU』について、中村の口から何度も出たキーワードは「繊細さと強さの共存」。制作期間中に好んで聴いていた音楽もそうした全体像に反映されているようだ。
「前作のときはチューン・ヤーズのローファイさが気になってたんですけど、繊細さと強さが共存しているという点では、ここ数年ローラ・マヴーラやリアン・ラ・ハヴァス、ダーティー・プロジェクターズの作品に魅力を感じるようになりました。あと、モッキーやムーンチャイルド、ライみたいにメロウだったり、R&Bとも言い切れないようなものにある〈聴いていてずっと気持ちの良いもの〉という感覚を自分の作品にも採り入れてみたかったです」。
レコーディング・エンジニアはSuchmosやceroの作品を手掛けてきた奥田泰次が担当。コーラス・アレンジを務めたMASAHIRO KITAGAWAも交え、細部までこだわりながら作業は進められた。
「奥田さんや荒木さんたちはスネアの音だけをひたすら何時間もかけて調整してましたね。プリプロの段階でほぼ完成されているので、それ以上良い音にならないと意味がないんですよ。私は途中でついていけなくなりましたけど(笑)」。
最終的に出揃ったのは12曲。“SHE'S GONE”“get back”を筆頭に、生音と打ち込みが溶け合った音作りには 近年のソウル的な感覚が満ちているほか、「アンダーソン・パークみたいにおもしろい譜割りの歌を作ってみたかった」という“アイアム主人公”では、語りとラップと歌の中間とも言える歌唱を披露。さらに、中村流のジャパニーズ・トラッドともいうべき“そのいのち”には方言とも古語ともつかぬ不思議な言語感覚が宿っていたりと、独特のフロウをこなす一方で、原点となるピアノの弾き語りを軸にした“永い言い訳”や“忘れっぽい天使”などでは、シンプルな歌い手としての力量も発揮している。
「メンバーから〈この2曲はどうしても入れたい〉とお願いされたんです。ただ、弾き語りとはいえ、このメンバーじゃないとできないアレンジにしようと。マスタリングで最終版を聴いたときは、(イメージとして)金の稲穂の群れが見えたのをよく覚えています」。
こうして完成した『AINOU』。そのタイトルは自身が立ち上げたレーベルの名前でもある。
「みんなから見えている私と自分が考える私の間には必ず差異があるはずなんです。〈そのことを私はわかっている〉ということを伝えたくて〈I Know/AINOU〉というタイトルにしました。私があなたのことを好きって知ってるでしょ? あなたも私のことを好きでしょ。私は知ってるの。アイノウ。じゃあ、話し合ってお互いの差異を見つけていきましょう——そういう関係を全国の方々と作っていきたいんです」。
「7年間音楽をやってきたけど、私のなかで〈新しい〉と思える音楽を作れたんだ——そう自信を持って言える作品になったと思います」と新作を評して語る中村。本作は今年を代表する作品の一枚に数えられることになるだろう傑作だが、それでもなお、中村佳穂という壮大なスケール感を持つ表現者の一部が世に提示されただけに過ぎない。彼女は10年後にどんな領域まで到達しているのだろう? 末恐ろしくなる才能の登場だ。
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