2015年に亡くなった米ニューオーリンズR&Bの偉大な音楽家アラン・トゥーサン。作曲家として多数の名曲を生んだ彼だが、ソロアルバムの代表作は1975年5月に発表された『Southern Nights』だろう。本作のリリース50周年を祝って、音楽評論家の高橋健太郎に寄稿してもらった。 *Mikiki編集部
とびきりの名曲を収め、じわじわ評価を高めた名盤
アラン・トゥーサンが死去してから10年が過ぎようとしている。加えて、この2025年はアランの代表作『Southern Nights』の発表50周年にも当たる。
1975年の5月に世に出たこのアルバムは2曲のとびきりの名曲が収められていた。ひとつは“What Do You Want The Girl To Do”、もうひとつは表題曲の“Southern Nights”だ。前者は1976年にボズ・スキャッグスがアルバム『Silk Degrees』でカバーして、広く知られるようになった。ボニー・レイット、ローウェル・ジョージほか、数多くのアーティストにもカヴァーされている。“Southern Nights”は1977年にグレン・キャンベルが全米ナンバーワンヒットにした。
『Southern Nights』というアルバムは発表時に大ヒット作になった訳ではないが、こうしたカバーバージョンの成功やミュージシャンからの強い支持によって、じわじわと名盤としての評価を高めてきた感がある。
成功の絶頂だったのにスランプ?
名曲“Southern Nights”はヴァン・ダイク・パークスとの会話を機に生まれた。これはアランとヴァン・ダイクがともに語っている有名なエピソードだ。スランプに陥り、アルバム用の曲が書き上げられずにいたアランに、ヴァン・ダイクが「2週間後に自分が死ぬと知っていたら、君は何をする?」と言った。その言葉から閃きを感じたアランは2時間くらいで“Southern Nights”を書き上げ、その日のうちにスタジオに駆け込んで録音したのだという。
といっても、当時のアランがスランプに陥っていたというのは俄かには信じ難い話ではある。1950年代後半からニューオルリンズのR&Bシーンで活躍し、ナオミ・ネヴィルのペンネームで数多くのヒット曲を書いてきたアラン・トゥーサンは、1960年代後半にはザ・ミーターズとともにニューオルリンズR&Bのファンク化を主導。1970年代にはロックシーンにも強い影響力を持つようになった。1973年にニューオルリンズにシー・セイント・スタジオを開設すると、ドクター・ジョンの『In The Right Place』、ブローニング・ブライアントの『Browning Bryant』、ジェス・ローデンの『Jess Roden』、フランキー・ミラーの『High Life』といったアルバムを次々にプロデュース。さらに、1974年には特大のヒット曲を世に送り出している。全米ナンバーワンを獲得したラベルの“Lady Marmalade”だ。
スランプどころか、1974年のアラン・トゥーサンは成功の絶頂にあった。忙しかったには違いないが、曲が書けなかったかというと、アランはブローニング・ブライアントやフランキー・ミラーのアルバム用にたくさんの曲を書いている。ミラーが歌った“Play Something Sweet (Brickyard Blues)”などはスリー・ドッグ・ナイトやB・J・トーマスなどにもカバーされたアラン屈指の名曲だ。そのセルフカバーを入れる手だってあったはずだ。ただ、アランは何か新しいことをソロアルバムに織り込みたいと考えていて、それが見つけられずにいたのかもしれない。