洗練されたコンテンポラリー・スタイルの確立
そう、シカゴはデビュー当時から〈サプライズと探求の心〉に満ち溢れた連中だった。前身のビッグ・シングの結成が67年。当初は管楽器入りのリズム&ブルース・バンドをめざしたものの、直後に届いたビートルズ『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』に衝撃を受け、音楽性を拡大。その年の暮れには、同郷シカゴのトップ・バンド、エクセプションズからピーター・セテラを引き抜き、翌年LAへ進出する。当時の名前はシカゴ・トランジット・オーソリティだった。
69年作『The Chicago Transit Authority』収録曲“Does Anybody Really Know What Time It Is?”
アルバム・デビューは69年4月。新人では異例の2枚組LPだった。それでもホーンを擁したニュー・ロックというスタンス、ライヴでの奔放なインプロヴィゼーション、知性溢れる社会的なメッセージなどが評価され、一躍注目の的に。一方でシカゴ運輸局からのクレームにより、バンド名を縮めざるを得なくなるオチもついたが、またしても2枚組で出した2作目『Chicago II』(70年)から“25 Or 6 To 4”が大ヒットし、人気を確かなものにする。ブラッド・スウェット&ティアーズやチェイスと並んでブラス・ロックの牽引役と目され、日本でもローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンらに匹敵する人気を誇ったというから凄まじい。72年の2度目の来日公演を収めた『Live In Japan』は、日本限定の番外編にも関わらず、サンタナやベック・ボガード&アピス、マイルス・デイヴィス、ディープ・パープルらの〈Live In Japan〉ブームに先鞭を付けた。
72年作『Chicago V』収録曲 “Saturday In The Park”
しかし、このライヴ盤を挿むかたちで制作・発表された『Chicago V』(72年)は、彼らの変化を如実に物語っている。よりポップで親しみやすく、少し内省的でソフトな質感──そんな楽曲が増えたのだ。その象徴が、全米TOP3入りして初のミリオンセラーとなった“Saturday In The Park”。同曲の成功と初のシングル・アルバムだったのが功を奏し、〈V〉は見事に全米No.1に輝く。これを機に着々とポップ化を進め、ジャズやソウル、ファンク、ラテンといった多彩な要素をさらに深く追求。洗練されたコンテンポラリー・スタイルを確立した。70年代中盤に訪れたビーチ・ボーイズとの交流(〈ビーチカゴ〉と呼ばれるジョイント・ツアーや互いのレコーディングに参加)や、元セルジオ・メンデス&ブラジル66のパーカッション奏者であるラウジール・ジ・オリヴェイラの加入はその好例。バンドの中核を担うロバート・ラムが初のソロ作『Skinny Boy』を発表したのも、74年である。
ただし、ポップ化を巡ってはバンド内にも対立があり、原点回帰派との衝突が起きた。その両者の拮抗が、バランス感に優れた『Chicago VIII』(75年)のような好盤を生んだのも事実なのだ。が、それも『Chicago X』(76年)からセテラの歌うバラード“If You Leave Me Now”が初の全米No.1になって決着。続く『Chicago XI』(77年)からもセテラの“Baby, What A Big Surprise”がTOP5入りし、シカゴはコンテンポラリー・ポップの代表格としてキャリア最初の頂点を極めていく。
77年作『Chicago XI』収録曲 “Baby, What A Big Surprise”
そんな順風満帆の彼らが悲劇に見舞われたのは、78年1月のこと。リーダーのテリー・キャスが銃の暴発事故で急死したのだ。折しも彼らは、グループを発掘して人気バンドへ導いたプロデューサー、ジェイムズ・ウィリアム・ガルシオと訣別した直後。かくして10枚目のオリジナル盤『Hot Streets』(78年)は、新ギタリストにドニー・デイカス、プロデューサーにフィル・ラモーン、ゲストにビー・ジーズを迎え、フレッシュな心機一転作となった。何より、タイトルに番号を振らなかった点に、再出発に賭けるグループの意気込みが感じられたものである。だが、ディスコに挑戦した次作『Chicago 13』(79年)は賛否両論を巻き起こし……というより、オールド・ファンにははっきり不評。栄光のシカゴは、あっという間に奈落の底へと落ちていった。