ニューオーリンズの熱にやられた『ディキシー・フィーバー』
――そういうなかで77年に『ディキシー・フィーバー』をリリースします。
「同じスタジオを使った理由は、慣れていたからってこと。コストは東京のスタジオよりベター、しかも機材は良かった。スタジオのそばにお化け出るような怪しいアパートを取って、歩いて通った」
――このアルバムの特色としては、ニューオーリンズ色が濃い目だということが挙げられます。
「76年のあたまに初めてニューオーリンズでマルティグラ体験をしているんだけど、心底ニューオーリンズに惚れ込んじゃって。そのあとサンフランシスコの友達のところに戻ったとき、私、熱出しちゃって、一週間寝込んじゃったんだ。それがあってアルバム・タイトルを『ディキシー・フィーバー』にしたわけ。ヒューイ・スミスの“Rockin’ Pneumonia & The Boogie Woogie Flu”(57年)じゃないけど、いま考えるとあの経験はブギウギ・フルーだったな(笑)」
――大きいポイントとしては、偶然にもロニー・バロンをレコーディングに呼べることになったという出来事で。
「そうです。当時すでに彼のことはベター・デイズのメンバーとして知ってたし、ドクター・ジョンの片腕だってこともわかっていた。ピアニストとしてだけでなく、歌もめっちゃ上手いし、ライ・クーダーのセッションでも良いキーボードを披露していたんで、すごい奴がいるなと。そしたら、スケジュールが空いてるって言うわけだよ。こちらとしては、まさか!だよね。それで彼にハワイまで来てもらっだんだけど、アルバム全体が一気に濃くなった印象がある。
いつも無計画だったけど、天の助けがあって結果的にああいうふうになっていくんだよ。それとドラムを叩くはずだった林(立夫)くんが熱を出したことで、偶然スタジオにやってきたトラヴィス・(フラートン※)が代わりに叩くことになる、なんて偶然もあった。なんでそうなったのかという経緯もすっかり忘れていて、人に言われて、そうだった!って思い出したぐらいでね。
ドラムをレンタルしたくてトラヴィスにセットを持ってもらったんだけど、実は自分もドラマーなんだって言うからちょっと叩いてもらったら、ビックリするほど上手くてさ。だったらレコーディングに参加してよって話になってね」
――彼の叩き出すビートがアルバムの色合いを決定しているところがある。
「アメリカンだよね、やっぱり。ああいうスタイルって誰もが叩けないよ。というわけで、偶然にしてはあまりに出来すぎな音が出来てしまったんだよね」
――『ディキシー・フィーバー』のあともロニーとの付き合いが続くとは思いもよらなかったのでは?
「そうだね。次のアルバム『ラッキー・オールド・サン』(77年)にも参加してもらったんだけど、そのときは最初からロニーを呼ぼうって話だった。当時彼は、ミーターズやドクター・ジョンも参加したアルバムを録りはじめているんだけど、何かの問題が生じて中断しているんだと話していてね。
もったいないからぜひ完成させたい、って言ったところ、日本コロムビアが、じゃあやりましょう、って乗ってきてさ。で、私たちがバックアップして作り上げたのが『The Smile Of Life』(78年)。(共同プロデューサーだった)細野さんはもうそろそろYMOが始まっていたぐらいだったかな」
――今回のリマスター作品のなかで『ディキシー・フィーバー』の素晴らしさは群を抜いていると個人的には感じていて。よりいっそうファットで粒立ちの良くなったサウンドに打たれまくっているんです。テキサスの方面まで足を伸ばして、南部一帯のスタイルを掘り下げようとする貪欲な姿勢もクッキリ浮かんでくるようで、こんなにカッコいいアルバムだったのか!なんていまさら気づかされたりして。
「より大陸的というかアメリカンな感じにはなったと思うんだけど、これまでになくバンドらしさが高まっていたんだよね。77年の音を聴くと、おっ、なかなか上手いバンドだな、って自分ながら思うもん。アティテュードというかニュアンスというかさ、よくこんなにうまくロック・バンドに成りきってるな!って(笑)。そういえば70年代の終わりだったかな、夕焼け楽団スタイルをおしまいにしようと話し合っていた頃に、カラパナのマネージャーが会いに来てね。アメリカでデビューしないかと」
――へぇ、そんなことがあったんですか。
「カラパナはもう解散していて、今度は夕焼け楽団をアメリカに売り込みたいと。でも、こちらとしては、え~もう終わろうって考えてるのに、これからアメリカかよ、っていう反応(笑)。ただ、もしもこの誘いが『ディキシー・フィーバー』の頃に来てたら考えてたかもしれない」
――いやはやなんともはや、って感じですね。
「その人は『ディキシー・フィーバー』を聴いて、もう少しアメリカ向けに作ればブレイクするんじゃないかって目論見があったんだろうけどね。ま、ズッコケちゃったよね。いまさらないでしょ、って(笑)」
理解されるかどうかなんて考えなかった
――このアルバムに収録された“星くず”が昨今シティ・ポップ・クラシックとして再評価されていますが、その辺の動きはどう映ってますか?
「あれは洋ちゃんの曲なんですよ。たしかにシティ・ポップと呼ばれるような雰囲気はあると思う。当時はそんなこと思いもしなかったけど。ちょっとヤング・ラスカルズっぽいよね。“Groovin’”(67年)に似たムードがある。ヤング・ラスカルズやラヴィン・スプーンフルといったイーストコーストのバンドの匂いがあるなと感じて、ああいうディスコ・アレンジにしたんだと思う。いまシティ・ポップと呼ばれる音楽はドンズバですよね。ライト・ソウルみたいな感触があってね」
――それをふまえてお訊きしたいのですが、夕焼け楽団の音楽と現在の音楽シーンのつながりについて。麻琴さんはどう認識されていますか?
「もはや想像もつかない話だね。もう勝手にして、って心境だよ(笑)。しかしどうなんだろうな……今回リマスター作業を行い、40年という距離を置いたうえで見直してみて、評価ができるってわけじゃないけど、それがいったい何だったのかを理解できるというか、バンドを判断する目は、いまのほうが良いかもわからない。
当時を振りかえると、やればちゃんと受け入れてくれる土壌があったから、どうにかやっていたところもあった。ただ、録音する場合にはまた違う意識が働いていたんだよね。理解されるかどうかなんて考えなかったし。とにかくやれることをやる、って姿勢だけはいつ何時も変わらないんだけど」
――しかし、ほぼほぼ半世紀も前の作品になるわけですよね。それらが改めて世に問われるという、何とも言えない感慨があるんじゃないかと想像しますが。
「ミュージシャンとしての上手さとか卓越さがあったのかはともかく、音楽全体の響きとか個性はあると思う。でも、掘り起こすべき音楽はまだまだあるよ。例えば、身体を楽器にしている本物の歌手と呼べるのは、布施明やちあきなおみが最後じゃないか? この3月に布施明のコンサートに行く予定だったんだけど、残念ながらコロナのせいでキャンセルになっちゃって。2年ぐらい前に観たとき、この世のものじゃないぐらいすごかったよ。機会があればプロデュースしたいと思っている」
――それはぜひ実現してほしいですね。でも今回の3枚はどれも麻琴さんの歌声がこの上なく艶やかによみがえっていて感動的ですよ。久保田麻琴という稀有なヴォーカリストのかけがえのなさを改めてアピールする絶好の機会になると確信していますので。本日はどうもありがとうございました。
【2021年10月28日追記】2020年6月4日に掲載された当インタビュー記事中の、久保田麻琴さんの「実は最近、水谷(孝)と話をしたんですよ」という発言について、Twitterを中心に誤解や憶測が生まれております。お2人のやりとりは2019年の8~9月にかけて数回行われたものですので、改めて正確な事実をお伝えしたく、本文に〈(電話やショート・メッセージでのやりとりは、2019年の8~9月にかけて数回以上行われた)〉という一文を追加いたしました。水谷孝さんと裸のラリーズについて、詳しくはこちらの記事もご覧ください。 *Mikiki編集部