ブラジルはリオデジャネイロを拠点とするミュージシャン/作曲家/プロデューサーのチアゴ・ナシーフが、ニュー・アルバム『Mente』をリリースした。同作は、かねてからコラボレーションを重ねてきたアート・リンゼイ(Arto Lindsay)が共同プロデュース。ムーグやカシオトーンなどシンセサイザーをふんだんに使用し、いびつなファンクネスとトロピカリズモ的な感覚が同居したサウンドを鳴らしている。この不可思議な音楽性は、どこからきたものなのだろうか。南米はもちろん世界各国の音楽に知見の深いライターの大石始が、チアゴへのインタビューを交えながら『Mente』を解説した。 *Mikiki編集部

THIAGO NASSIF 『Mente』 Gearbox(2020)

 

新世代ブラジル人ソングライターたちを導く光

リオデジャネイロを拠点とするチアゴ・ナシーフは、ここ数年アート・リンゼイの右腕的存在として重要な仕事を残している。共同プロデューサーとして名を連ねたアートの2017年作『Cuidado Madame』はその筆頭といえるが、アートが共同プロデューサーとして参加したチアゴの2016年作『Três』もこの2人だからこそ作ることができたアヴァン・ポップの快作である。アートはそんなチアゴについて「新世代ブラジル人ソングライターたちを導く光」と絶賛しており、彼の音楽的なセンスに絶大な信頼を寄せているようだ。

2016年作『Três』のトレイラー映像
 

では、アートはチアゴのどのような部分に信頼を寄せているのだろうか。ブラジルのあらゆる音楽に精通しながら、実験的な即興演奏をこなし、現行のエレクトロニック・ミュージックも愛聴するという音楽的知識の深さ。さまざまな楽器演奏に長けたマルチ・インストゥルメンタリストとしての腕。後述するように彼はサウンド・エンジニアとしてアメリカでも活動していた経験があり、音作りに関する技術とノウハウを持っていることも理由のひとつだろう。

 

リオデジャネイロ産オルタナティヴ・ポップの傑作

そんなチアゴのニュー・アルバム『Mente』は、前作に続いてアート・リンゼイが共同プロデュース。アート譲りのエクスペリメンタル・ポップを奏でる一方で、今回はムーグなどのアナログ・シンセサイザーを多用。生のグルーヴとシンセが交差する場所に、彼独自の世界を描き出している。

チアゴはアナ・フランゴ・エレクトリコ(Ana Frango Elétrico)の2018年作『Little Electric Chicken Heart』など、近年国際的な注目を集めているリオデジャネイロ新世代の作品群にも参加しており、彼自身がリオデジャネイロ・シーンにおけるキーパーソンのひとりともなっているが、『Mente』にはそのアナ・フランゴやペドロ・サー(Pedro Sá)、ジョナス・サー(Jonas Sá)、ヒカルド・ヂアス・ゴメス(Ricardo Dias Gomes)、ヴィニシウス・カントゥアリア(Vinicius Cantuária)など多彩な面々が参加している。Bandcampの『Mente』のページには〈alternative〉〈no wave〉〈tropicalia〉〈Rio De Janeiro〉などのタグが付けられているが、そのタグに引き寄せて表現するならば、本作はリオデジャネイロ産オルタナティヴ・ポップの傑作といえる。

だが、『Mente』に広がる広大な音楽世界は〈アート・リンゼイの右腕〉〈リオデジャネイロ新世代のキーパーソン〉などといった謳い文句だけで決して説明しきれるものではない。その背景に迫るべく、今回はチアゴとのメール・インタビューを決行。ひとつひとつの質問に丁寧に答えてくれたので、その回答を軸に彼のキャリアを振り返ってみたい。

 

キャプテン・ビーフハートやCorneliusに感化されて

チアゴは1980年2月、サンパウロ生まれ。幼少期の多くをサンパウロ州のサンジョアン・ダ・ボア・ヴィスタという街で過ごした。家族は無類の音楽好きで、チアゴ自身も幼少時代からさまざまな音楽に触れて育ったという。当時の音楽体験について彼はこう語る。

「子供のころの僕にとってはチャック・ベリーがアイドルだったんだ。それからアントニオ・アルロス・ジョビン、シコ・ブアルキ、ジョアン・ジルベルトらのボサノヴァやサンバ、あとは母の田舎のラジオでよくかかっていたセルタネージョ(ブラジル内陸部のカントリー・ミュージック)。祖母が歌ってくれたレバノンの子守唄もよく覚えている。10歳でギターを始めてからはブルースやファンク、ラップやジャズも聴くようになったよ」

ちなみに、〈ナシーフ〉という苗字はレバノン系のものだそうで、レバノンやシリアにルーツを持つアラブ系ブラジル人はサンパウロを中心に各地に広がっている。有名なところだと、かのカルロス・ゴーンもレバノンの血を引くブラジル人。チアゴが奏でる音楽の深層には、祖母から伝えられたアラブの響きも横たわっているのだ。

10代に入るとチアゴの音楽地図はさらに拡張。その頃出会ったというルー・リード、プリンス、ボブ・ディランあたりは誰もが通る道かと思うが、加えて「ポスト・パンクのサウンドやブラジルの不協和音を使ったギター・コード、キャプテン・ビーフハート、ヴァルテル・フランコやイタマール・アスンソーンといった音楽家からも影響されたよ。Cornelius※のコラージュには度肝を抜かれたし、トン・ゼーもいつもお手本。その後はミニマル・テクノやエレクトロニック・ミュージックにもハマった」と話す。

カルト的な人気を誇ったキャプテン・ビーフハート、サンパウロの異端シンガーであるヴァルテル・フランコ、ヒネくれたポップセンスで近年再評価されているトン・ゼー。あまりにもクセの強い並びからチアゴの趣味嗜好が窺える。さらにCorneliusのコラージュ手法、ミニマル・テクノやエレクトロニック・ミュージックからの影響、そしてサンバやボサノヴァといったブラジルの偉大な音楽遺産から受け継いだものまでがチアゴのなかには流れ込んでいるのだ。

※Corneliusは自身がDJを務めるα-STATION FM京都のラジオ番組〈FLAG RADIO〉で、チアゴの新作『Mente』収録曲“Soar Estranho”をプレイしている(7月8日オンエア)
 

新時代ブラジル音楽の本山、トラマ(Trama)での経験

チアゴが初めて組んだバンドはギターとドラムという2人編成。相方はのちにエルメート・パスコアールのグループに加入するドラマー、アレックス・ブッキだった。チアゴはその後、ロカビリーやサーフ・ミュージックのバンドに参加する一方で、エンジニアとしての技術を学び始める。当初は独学だったようだが、やがてとある音楽制作会社でインターンをすることに。それがサンパウロの新興レーベル、トラマだった。

トラマは90年代末から2000年代にかけてオットーやマックス・ヂ・カストロ、DJパチーフェら新時代のブラジル音楽を世に送り出し、同時代のブラジルにおいて一大潮流を生み出したレーベル。チアゴはブラジル音楽史に名を残すギタリスト、バーデン・パウエルの遺作にあたる『Lembranças』(2000年)のレコーディングにも参加するなど、トラマでサウンド・エンジニアとしての経験を積む。なお、トラマからはCorneliusやピチカート・ファイヴのブラジル盤も発売されており、ひょっとしたらチアゴはトラマ経由で彼らの音楽に触れていたのかもしれない。

バーデン・パウエルの2000年作『Lembranças』収録曲“Minha Palhoça”

 

CSSらを輩出したサンパウロ地下シーン

さて、チアゴに話を続けてもらおう。

「トラマで働いたあと、サウンド・エンジニアリングと音楽制作をより本格的に学ぶため、アメリカのナッシュヴィルへ渡ったんだ。SAEインスティテュートに通いながら、スターストラックという大きなスタジオでインターンを経験した。当時のバンド・メンバーと出会ったのもそこで、サイケデリック・フォークのバンドをやっていたんだ。当時のギタリストが奇妙な演奏をする奴で、彼の影響で僕も実験的な即興演奏をするようになった。オーネット・コールマンやジョン・ゾーン、アート・リンゼイはその頃から僕にとって大事なインスピレーションだったよ」

2004年から2年間に及んだナッシュヴィルでの修行期間を経て、チアゴはサンパウロで音楽活動を再開。時代は2000年代後半、サンパウロのアンダーグラウンド・シーンが盛り上がりを見せつつあった時期である。のちにブラジルの国民的な人気ラッパーとなるクリオロやエミシーダがアンダーグラウンドのスターとなっていたほか、このシーンから活動を開始したCSSは、やがて世界的な認知を獲得することにもなった。クラブやギャラリーでは実験音楽のイヴェントも数多く行われており、チアゴもそうしたイヴェントで即興を軸にした演奏活動を展開していく。

2008年にはサンパウロのヴィジュアル・アーティスト、フーベンス・E・サントスとの共作となるファースト・アルバム『Garçonnière』を発表。サンパウロの地下シーンで話題を集めると、2011年にはセカンド・アルバム『Práxis』を完成させる。現在まで交流の続くサンパウロのシンガー・ソングライター、ラウラ・ヴロナらが参加したこのアルバムには、数秒の即興演奏を含む28トラックが収められており、サンパウロ・アンダーグラウンドの先鋭性を凝縮した作品となっている。

2011年作『Práxis』収録曲“Keumm”

 

ノーウェイヴ経由のMPB

チアゴがアートと初めて出会ったのは、この『Práxis』リリースの数年後だったと思われる。以前から強い影響を受けていたアートとリオデジャネイロのとあるショウで遭遇したチアゴは、彼に『Práxis』のCDを手渡すと、次回作のプロデュースを依頼。2015年、チアゴはサンパウロからリオへと移住し、アートとのレコーディングに入る。その成果は2016年の傑作『Três』に結実した。

リオデジャネイロに拠点を移したチアゴは、同地ですぐさま重要な役割を果たすように。彼がレコーディングに参加したアナ・フランゴ・エレクトリコの2018年作『Little Electric Chicken Heart』にはポスト・ロック経由のブラジル音楽といった肌触りがあり、その斬新な響きは〈リオデジャネイロ新世代〉という言葉とともにここ日本にも伝えられるようになった。

「僕と同様、アナの音楽にもさまざまな要素が融合されている。僕と違うのは、彼女が素晴らしいシンガーだということ。アナの歌声は一般的なブラジリアン・ミュージックのものとはあきらかに違う、特別なものなんだ。1920年代のジャズのようなヴァイブがあるけど、音楽的な新しさもある。彼女のアレンジやパンキッシュな姿勢が大好きなんだ」

アナ・フランゴ・エレクトリコの2018年作『Little Electric Chicken Heart』収録曲“Se no cinema”
 

アナが奏でているのがポスト・ロック経由のボサノヴァ~MPBだとすれば、チアゴのそれはノーウェイヴ経由のMPBである。そして、そうしたチアゴの資質は、アート・リンゼイの『Cuidado Madame』で広く知られるようになった。ここまでに触れてきたようにチアゴは2000年代前半のトラマ、2000年代後半のサンパウロ・アンダーグラウンド、そして2010年代後半のリオデジャネイロ新世代と、ここ20年間のブラジル音楽の新潮流に常に関わり続けてきたわけだが、このアルバム(および2016年作『Três』)でようやくチアゴの名を認識したリスナーも少なくないはずだ。

アート・リンゼイの2017年作『Cuidado Madame』収録曲“Seu Pai”

 

聴くものを踊らせること、それがゴール

チアゴの新作『Mente』は、プリンス的なファンクネスも顔を覗かせる“Soar Esranho”で幕を開ける。チアゴが「このアルバムをよりポップでダンスフロア的なものにすることを目標にした。聴くものを踊らせること。それをゴールとしたんだ」と話すヴィジョンは、この冒頭曲からはっきりと打ち出されている。

『Mente』収録曲“Soar Esranho”
 

前作にあたる『Três』と大きく異なるのは、アルバム全体を独特のテクスチャーが覆っていることで、その一端を担っているのが大幅に導入された各種シンセサイザーだ。ただし、そこで展開されているのは今様のシンセ・ポップというよりも、ときにスーサイドを連想させるような不穏さを湛えたアヴァン・ポップである。シンセとバンドのグルーヴの融合という面でチアゴが理想としているアルバムを尋ねると、彼は「Corneliusの『Sensuous』(2006年)だね」と即答した。

「僕は自身の作品以外にもいくつものプロジェクトをリオの素晴らしいアーティストであるジョナス・サーと制作しているんだけど、彼は古いシンセのコレクターでもあるんだ。ミニムーグやアープ・オデッイ、ローランドのドラム・マシーンであるCR-78、CASIOのVL-TONE、ポリシックスやモノポリーなど、このアルバムでは彼所有のシンセをたくさん使った。あと、僕がライヴで使用しているVenomのバーチャル・アナログ・シンセサイザーも使ったよ。同時に4つのモジュレーターを使用できるもので、これを用いてドラム・ビートやテクスチャーを制作したんだ」

『Mente』収録曲“Santa”
 

マシン・ビートやループの心地良さと生演奏の持つ揺れを共存させるため、本作のレコーディングは少々複雑なプロセスで進められたという。そのプロセスをチアゴに解説してもらおう。

「まず初めにギターループをレコーディングして、それに合わせたドラム・ビートを考える。土台ができ上がったら、それをスタジオに持ち込んで、ヴィニシウス・カントゥアリアのドラムや他のプレイヤーのギターやベースをレコーディング。そのあと、それぞれのミュージシャンには各自自宅で細かい部分のレコーディングを進めてもらったんだ。

いくつかのリード・ヴォーカルはイヤフォンのマイクでレコーディングし、アルバムのミックスを手掛けたマルチン・シアン(Martin Scian)に渡した。いいテイクだったから僕としては高いマイクを使って再録音するよりもそのまま使いたくてね、彼には大変な思いをさせたよ」

 

倫理が利益に抑制されている世界への嘆き

チアゴの暮らすブラジルは現在、世界で2番目に多い新型コロナウイルス感染者数と死者数を記録している。最後に、この惨状をどう思うかと尋ねてみると、彼の言葉は熱を帯びた。

「(ブラジルの)ボルソナーロ大統領は虐殺魔で、彼の言動は日々状況を悪くする一方だ。国民や現実の問題なんて気にしていなくて〈コロナはただの風邪だ〉と連呼している。最近彼自身がコロナに感染したと報道されたけど、その時だって彼はヒドロキシクロロキンを投与されたから気分がいいと言っていたんだ。ボルソナーロ大統領はこの状況を使い、アメリカから輸入した薬を売ろうとしている。自身の利益ばかり考えているんだ。

ブラジルは感染の中心となり、これまでに数多くの死者を出しているけれど、医療体制はしっかりしているし、治療薬の開発に向けて研究者たちは頑張っている。問題は政府がそうした開発に資金供給していないこと。それについて厚生省は〈別の取り組みを検討している〉と述べているものの、何もはっきりした説明はなされていないのが現実さ」

また、こうした事態を引き起こしている昨今の社会背景が、アルバムのタイトルに影響を及ぼしたという。

「『Mente』というのは〈嘘をつく〉もしくは〈マインド/精神〉という意味のポルトガル語なんだけど、この名前ひとつでさまざまな意味合いを持たせられると思ったんだ。政治家がフェイク・ニュースを使って票を集める今の世の中、何が真実かわからなくなってきている。倫理が利益に抑制されている世界になっている状況を反映したかったんだ」