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コラム

フリッツ・ボン・ルンテ(Fritz Von Runte)『The Last Album』クラフトワークの精神を継承した、声と機械のキメラ音楽

フリッツ・ボン・ルンテ(Fritz Von Runte)『The Last Album』クラフトワークの精神を継承した、声と機械のキメラ音楽

2020年11月、フリッツ・ボン・ルンテが11年ぶりにリリースしたニュー・アルバム『The Last Album』。デジタル配信のみだった本作の日本限定盤CDが、2021年3月3日にリリースされた。

英マンチェスターを拠点に活動するDJ兼レコード・プロデューサーであり、エレクトロニック・ミュージックの世界において常に第一線で活躍してきた、フリッツ・ボン・ルンテ。これまでにニュー・オーダーやペット・ショップ・ボーイズなどのリミックスを手掛けており、2011年にリリースしたデヴィッド・ボウイのリミックス・アルバム『Bowie 2001: A Space Oddity』は、ビルボード誌にてボウイのベスト・リミックスの1つに選ばれている

そんな彼が11年ぶりに世に問うた本作にはピーター・バラカンを筆頭に、宮川電卓、レネゲイド・サウンドウェイヴのゲイリー・アスギス、ベッカ・ドリームズといった面々が参加している。さらにボーナス・トラックとして、808ステイトのグラハム・マッセイによるリミックスが収録されている。

今回、このコラムではフリッツ・ボン・ルンテの音楽的試みを深く掘り下げる。そこで見えてきたのは、テクノ音楽の父・クラフトワークとの本質的な親近性であった……。

ピーター・バラカンが誘うフリッツ・ボン・ルンテの実験室

〈次に紹介する作品は、イギリスのマンチェスターを拠点とするフリッツ・フォン・ルントの新作で、もしかしたら最後になるかな? タイトルは『The Last Album』〉。本作冒頭の“Intro”においてそのように紹介する声の主は、あのピーター・バラカンである。NHK-FM「ウィークエンドサンシャイン」やInterFM897「Barakan Beat」といったラジオ番組でおなじみの歯切れがよく流暢な彼の語りは、アフリカ音楽を再構築したようなフリッツ・ボン・ルンテのひんやりとした質感のトラックに乗ることで、あたかもポエトリー・リーディングのように響く。

※ピーター・バラカンは現地の発音に従い〈フリッツ・フォン・ルント〉と発音しているが、本稿では日本盤CDに従い〈フリッツ・ボン・ルンテ〉と表記

この“Intro”は曲全体でわずか40秒足らず、ピーター・バラカンの語りに至っては20秒程度しかない、小品とすら言えないようなナンバーだが、アルバム全体の中で無視できないほど大きな存在感を放っている。それは〈前口上〉であると同時に、アルバム全体を貫く試みをわずかな時間の内に凝縮した、歴然たる〈楽曲〉でもある。ではこのアルバム全体を貫く試みとは、いったい何だろう? それは、様々なアプローチで人の声をエレクトロニック・ダンス・ミュージックの中に溶け込ませることである。

『The Last Album』収録曲“Intro”

 

電子音の海をたゆたう断片化した声たち

“Intro”以降においても、本作では全編にわたって人の声がフィーチャーされている。そしてその中で彼らの声と言葉の大半はひと繋ぎの文章をなすことなく、あくまで断片のままに留まっている。だが言葉たちが断片のまま放り出され、まとまった意味をなさないからこそ、それらを乗せた声たちは〈不気味なもの〉として、日ごろ意味にとらわれている聴き手の感覚・価値観を強く揺さぶる。

たとえば“Dark Street”において男性の声が呪術的に反復する〈We’re Walking Dark Street〉というフレーズは、それ自体単なる情報に過ぎないにもかかわらず、私たちを得体の知れない不安へと陥れる。あるいは、ゲスト・ヴォーカルの宮川電卓が加工された不明瞭な声で〈Control Lost=統制を失っている〉と繰り返すオールドスクールなテクノ・ナンバー“Control Lost”を聴いた者の多くは、発せられる文言の不穏さにもかかわらず、そこに人を食ったようなユーモアを感じ取ることだろう。また、シュールなエレクトロ・ファンク・チューン“Kombucha!”では、国籍不明の女性の声が〈Kombucha=昆布茶〉と連呼するのを聴くうち、私たち日本人にとって馴染み深いはずのその言葉が、まるで異界でのみ通用している呪文のように思えてくる。

『The Last Album』収録曲“Control Lost”
 

このように〈意味の伝達〉という機能からはみ出すような声の使用が多く見られる本作に耳を傾けていると、ベッカ・ドリームズを客演に迎えたストレートな歌ものエレ・ポップ“Dance Party In The Living Room”ですら、何か裏の意味を含んでいるのではないかと思えてくる。そしてこうした〈揺さぶられ〉の経験は、聴き手を声というものの再考へと促す。音楽において、声とはいったい何だろう? あるいは、声・生楽器・打ち込みの究極的な違いは、いったいどんなところに存するのだろう?と。

『The Last Album』収録曲“Dance Party In The Living Room”
 

そもそも録音物における声は、マイクを通して発せられたものである以上、機械的なものから完全に自由であるとは言えない。一方で最も機械的なもののように思われている打ち込みは、手癖やリズム感といった肉体的感覚を通して作り手自身を反映しており、その意味で少なからず人間的であると言える。このように、人の声と打ち込み、ひいては人間的なものと機械的なものの間に明確な境界線を引くというのは、存外難しいことなのである。

そしてさらに、これらは互いの表現に影響を及ぼしながら、徐々に相互浸潤していく。 つまり、人の声による表現の中に機械的なものが浸透し、機械による表現の中に人間的なものが入り込んでいくということだ。そうなると、両者を表現の性質によって区別するのはいよいよ難しくなってくる。この話題に関連してくるが、かつて音楽プロデューサーの蔦谷好位置が、モニター・イヤホンの性能向上に伴う歌やラップのスタイル変化に関して興味深いツイートをしていたので、以下に引用してみよう。