73年の3月にフェイセズは4枚目のアルバム『Ooh La La』をリリースし、これもまたヒットとなった。マクレガン、ウッドとスチュワートが共作したシングル曲“Cindy Incidentally”はUKチャート2位となる。はたから見れば、このスマッシュヒットはバンドをハッピーにしただろうと思うだろうが、実際にはこのヒットがバンド瓦解のきっかけになっていた。自分のソロ活動に気を取られたロッド・スチュワートはレコーディングの最初の2週間、姿も見せなかったのだ。その時点でスチュワートにはバンドにいたいという意思があるのかどうかもはっきりせず、結局収録曲のうち3曲には参加していない。ロニー・レーンが作曲の担当を増やし、タイトルトラック“Ooh La La”もロン・ウッドがリードボーカルをとった。状況をさらに悪化させたのが、ロッド・スチュワートがニュー・ミュージック・エクスプレス誌(NME)のインタビューにおいて、このアルバムについて「メチャクチャ……最悪だ」と答えたこと。だが、アルバム自体はUKチャート1位を獲得した。
73年6月、スチュワートの自己中心さや批判的なコメント、自分がスターティングメンバーであるにもかかわらずバンドで常にわきに押しやられるような状態にうんざりしたロニー・レーンがバンドを脱退。その後すぐ、英バンドのフリーで活動していた日本人のベーシスト、テツ・ヤマウチ(山内テツ)が加入した。この後2年半の間、バンドは長期ツアーを開催し、その会場のほとんどは満員のスタジアム級だった。
新メンバーのヤマウチは、結局あまりバンドとは馴染まなかったという。非常に能力の高いベーシストではあったが、レーンのように曲が書けるわけでもなく、フェイセズのメンバーが徐々に脱却しようと試みていた伝説的とも言える深酒の習慣にはまった。スチュワートはヤマウチを「英語もほとんど話せない」と評し、コミュニケーションにも問題があったことがわかる。このメンバーでは一度もスタジオレコーディングは行わず、ライブアルバム『Coast To Coast』だけがリリースされている。このアルバムは、73年10月17日に行われたアナハイム・コンベンション・センターでのライブのラフレコーディングだった。アルバムには〈ロッド・スチュワート/フェイセズ〉とクレジットされ、スチュワートのソロアルバムから6曲、フェイセズの曲から3曲と、新たに2曲のカバー曲を収録。複雑なビジネス上の調整から、レコード版はマーキュリーが、カセットと8トラック版はワーナーがリリースした。このアルバムはすぐに絶版となったが、日本ではCD化され、現在はコレクターズアイテムになっている。
バンドの最後のシングル“You Can Make Me Dance, Sing Or Anything”は74年11月にリリースされ、クレジットにはメンバー全員が記載されていた。チャートではUKで12位。75年にはロン・ウッドがバンドを離れてローリング・ストーンズに加入。それによりフェイセズに新たな亀裂が生まれてしまい、バンドは最終的に解散する。