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〈100万ドル〉伝説の誕生

 本名はジョン・ドウソン・ウィンター3世。1944年2月23日、テキサス州はボーモント生まれ。といっても、母親の里帰り出産で、実際のウィンター家の居住地はミシシッピ州のリーランド。ジョニーはリーランドが生まれ故郷だと思い、後に“Leland Mississippi”という曲を作ったものである。やがて父が綿花ブローカーという祖父の仕事を受け継ぎ、ボーモントに移住。結果的にルイジアナ南部~テキサス東部の音楽が、ジョニーの胸に刻み込まれ、ルーツとして血肉化していく。

 ご存知の通りジョニーは先天性色素欠乏症(アルビノ)。視力も弱く、強い日光を浴びることができなかった。2年後に生まれた弟のエドガーも、やはりアルビノ。揃って、おのずとインドア派に。両親共に音楽好きであったため、兄弟はウクレレやピアノなどの楽器に親しみ、バディ・ホリー、エルヴィス・プレスリーらに憧れてエヴァリー・ブラザーズよろしくウィンター・ブラザーズとして活動。両親も熱心に応援した。

 59年、15歳で自身初のバンドであるジョニー・マカロニ&ザ・ジャマーズを結成(色白でヒョロっとしていたことからマカロニを名乗った)。ラジオ局主催のコンテストで優勝し、地元のレーベルで初録音する。ファースト・シングル『School Day Blues/You Know I Love You』はスワンプ風なロックンロールとブルース崩れの曲で、ルーツが垣間見えよう。

 ジョニーは早くからローカル・ラジオ局で流れるブルースに衝撃を受け、はまっていったという。レコードでは特にハウリン・ウルフに痺れ、“Bon Ton Roula”のヒットを持つルイジアナ~テキサスのローカルスター、クラレンス・ガーロウと知り合い、直接教えを乞うた。この時期にゲイトマウス・ブラウンやジョニー・ギター・ワトソンといったテキサスのギタリストたちをはじめ、シカゴ・ブルースのマディ・ウォーターズ、デルタ伝説の巨人であるサン・ハウスやロバート・ジョンソン、モダンなBB・キングなどの音楽を幅広くたっぷり吸収。10代の頃から地元のブルース・クラブにも出入りし、そこの黒人客に後押しされてBB・キングのライヴに飛び入り、御大を大いに驚かせたこともあった。

 
クレランス・ガーロウの1950年のシングル“Bon Ton Roula”

 60年代前半には、ソロやさまざまなバンドで地元のインディー・レーベルに吹き込み続ける。ブルースへの思いは人一倍強かったが、クラブやバーでの仕事に繋がるよう、サーフ・インスト、フォーク・ロック、サイケ路線など、節操ないほどにいろいろとレコーディング。そんな折、60年代半ばのブリティッシュ・インヴェイジョンによって、ブルースの逆輸入現象が勃発する。「ヒッピーたちはみんなブルースが好きだ」というアンクル・ジョン・ターナー(ドラムス)の悪魔の囁きに勇気付けられ、そのターナーと、後にスティーヴィー・レイ・ヴォーンのダブル・トラブルで活躍するトミー・シャノン(ベース)とのトリオでブルース道を突き進むのだった。

 しかし、そんなに甘くはなく、当初は食うや食わずやの生活を余儀なくされたが、68年、Rolling Stone誌のテキサス特集でその圧倒的な演奏ぶりが紹介され、一気に注目を集めることに。そして、NYでクラブを経営していたスティーヴ・ポールがマネージャーとなり、デビュー前からマイク・ブルームフィールドやジミ・ヘンドリックスとも共演。69年に破格の契約金でコロムビア入りし、実際には30万ドルだったらしいが〈100万ドルのブルース・ギター〉のコピーと共に、6月に『Johnny Winter』でメジャー・デビュー。同年には〈ウッドストック〉をはじめとする大型フェスにも多数出演し、一気に知名度を上げる。デビュー直前に制作された『The Progressive Blues Experiment』も競うようにセールスを伸ばし、早くも69年10月にはボブ・ディランやチャック・ベリー曲も取り上げた『Second Winter』を発表。勢いは止まらないかに見えた。