Photo by Johanna Berghorn
©Sony Music Entertainment

ショパンの音楽と共振する、音楽家の思索の軌跡

 月が地球を中心に回り、地球が太陽を中心に回っているように、宇宙にはたくさんの〈軌道〉が存在する。はるか昔の人々は、夜空にまたたく星々の周期的な動きを見つめ、天空のシンフォニーに耳を澄ませた。

 角野隼斗のニュー・アルバム『CHOPIN ORBIT』から聴こえるのは、より自由で愛に満ちた、ひとりの音楽家の思索の軌跡だ。幼い頃から親密な関係を築いてきたフレデリック・ショパンの音楽を中心に、彼はときに共振し、ときに時空を超えて駆けめぐる。

角野隼斗 『CHOPIN ORBIT』 Sony Classical(2026)

 ニューヨークを拠点に世界中の舞台で活躍し、ジャンルを越えた音楽表現で人々を魅了するピアニスト、角野隼斗。彼にとってショパンは、そしてピアノは一体どんな存在なのだろう。11月、カーネギーホールでの記念すべき公演を終えた彼に、現在の心境を聞いた。

 「今回の公演は、3年前に移住を決意したニューヨークでの、初の公演でした。カーネギー・ホールのような歴史のある特別な場所で、音楽を通じてその空間と一体化できたことがしびれるほどうれしかったし、その空間自体が私の音楽を変える感覚がありました。音をどう鳴らすかを超えて、空間と一緒に音楽を作る感覚とでもいうのでしょうか。とても不思議な体験でした」

 『CHOPIN ORBIT』は一転、角野の内面に没入していくように親密だ。

 音楽活動の中でショパン作品の解釈をし続けたことによって、「彼の音楽語法と音楽美学は自然に私の作品の中にも染み込み、現れるようになった」と語る角野。アルバムには、彼が向き合ってきたショパンの8曲と、そこからのインスピレーションに基づいて作曲された新曲(あるいはアデス、ヤナーチェク、ゴドフスキーといった、角野が尊敬する作曲家の曲)が交互に収録されている。同様の構成にはオーラヴル・アルナルズ、アリス=紗良・オットなどの前例があるが、ショパンはなぜこれほど多くの音楽家の心を動かすのだろうか。

 「ショパンは、感情のニュアンスが極端に細かい作曲家です。音楽の編成や構造はシンプルでも、呼吸の柔らかさ、間の取り方、和声の繊細な濁りなど、演奏者の内面がそのまま響きに自然に投影される作風だと思います。ですからショパンを演奏する時は、演奏者の〈個〉が端的に現れやすく、それが多くの音楽家を惹きつけてやまない理由のひとつではないかと思います」

 演奏者の〈個〉の印象を表すなら、角野のピアノからあふれるのは、夜明けの光のように密やかな解放感かもしれない。ショパンと交互に並んだ彼の自作曲を聴きながら、そんな思いを新たにした。たとえば序盤の“リディアン・ハープ”や“雨だれのポストリュード”では、ショパン語法の再構成の見事さとともに、室内から光ある外(宇宙/未来)へ広がっていく志向性を感じるのだ。要因のひとつは調性の変化だが、音響面での綿密な世界観づくりの結果でもあると、角野は語る。

 「音響面は、今回エンジニアの方と密に作り上げていった部分でした。ショパンのオリジナルの曲はありのままを聴かせる音響になっていますが、自分の曲は音響面も含めて世界観を作ることを意識しています。楽器はグランドピアノと新旧アップライトピアノ2台で完結していて、たとえば“雨だれのポストリュード”の金属的な響きは、弦を爪で直接はじいて出しています。ヤナーチェクの“Good Night!”ではチェレスタも使用しました」

 

 夜の優しさを描くヤナーチェクとともに演奏されるのは、ショパンによる最も親密な曲のひとつである“子守歌”。その即興的で自由な装飾音に、角野が愛するジャズとの親和性を感じ、目を開かされるような瞬間もある。その事実がもっとも顕著に現れるのは、ショパンのピアノ協奏曲第2番の第2楽章を再構成した“ラルゲット”だろう。「もしショパンが現代に生きていて、19世紀のサロンではなく現代のジャズ・クラブで演奏したら?」という問いかけは、実際にジャズ・クラブでの演奏を数多く経験する角野ならではのものだ。

 「私はクラシック音楽だけでなく、ジャズの和声感やアドリブにも強い関心があるわけですが、ショパンの予想を裏切る転調、装飾的な旋律などに、ジャズの語法と非常に近いものを感じます。もしもショパンが現代に生きていたら、きっとニューヨークのバードランドやブルーノートで演奏することを、嬉々として喜ぶでしょうね」

 ショパンの“マズルカ”や“幻想ポロネーズ”にこめられた〈祖国〉への考察と、自身の〈祖国〉を重ねた“空想ポロネーズ”も忘れられない。「私自身が受け継いだものを表現する」という挑戦は、どんな思いから生まれたのだろうか。

 「多くの演奏者と同様に、私も祖国を離れて、公演で世界を渡る中で、ショパンの〈祖国性〉がより自分事として感じられるようになってきています。ショパンの音楽にある、民族舞曲のリズムに込められた身体性、ポロネーズの精神性、亡命者としてのショパンの心の揺らぎ――これらを実際に、ポーランドで感じてきました。ポーランドでショパンを演奏することで、現地のお客様の受け止め方にも触れ、ショパンの音楽が現代でも文化的・歴史的文脈の中で生き続けていることを深く理解できたことは、私の大きな財産です。ショパンにとって、ポーランドを音楽で表すという行為は、ひとつの舞曲を採用すること以上の意味があった。それを尊重するため、新曲では私自身の子供時代の記憶をモチーフにしたのです」

 5年前、小誌のインタヴューで「ショパンやリストのようにクラシックを継承しながら、次の時代に発展する音楽を作りたい」と語った角野。その揺らがぬ愛と共感の深化は、音楽や言葉の端々に現れている。

 「ピアノを演奏するのみの音楽活動に収まらない動きを目指したいといつも思っています。再生芸術としてのピアノ演奏を続けつつも、作曲も行うことで、音楽全体の構造を自分の手でデザインすることを目指しているわけですね。作曲家として、ピアノ作品やオーケストラを伴う作品を残すことは、ピアノ演奏への視点も大きく広げるはず。ピアノはオーケストラの縮図だとも言えますし、モーツァルトやショパン、リスト、バーンスタインのようにコンポーザー&パフォーマーであることで、音楽の読み方が複眼的になります。このことは、音楽家としての大きなメリットだと感じています」

 昨年秋には、フィギュアスケート鍵山優真選手のために書き下ろしたオーケストラ曲が話題になるなど、その音楽世界は確実に広がっている。新たな挑戦を続ける彼に、最後にあらためて、ショパンを演奏することの意味を尋ねた。

 「ショパンを演奏することは、技術や技法に拘泥することではなく、自分がピアノでなにを語るかを映し返す、鏡のようなものだと考えています。ジャンルを横断して活動する私にとってショパンとは、クラシックだとかジャズだとか、古典派とかロマン派とかを超越した、音で何かを語るための究極の語彙、のような存在かもしれません」

 


角野隼斗(すみの・はやと)
1995年生まれ、千葉出身。2018年、東京大学大学院在学中にピティナ・ピアノコンペティション特級グランプリ受賞。2021年、ショパン国際ピアノコンクールセミファイナリスト。これまでにシカゴ交響楽団、ポーランド国立放送交響楽団、ボストン・ポップス・オーケストラ、ハンブルク交響楽団、ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団、NHK交響楽団、読売日本交響楽団、他多数のオーケストラと共演。2023年よりニューヨークに移住。2024年、自身最大規模の全国23公演の日本ツアーを開催し、全公演完売。自身の誕生日である7月14日に日本武道館公演を開催し、動員数は日本武道館におけるピアニストの単独公演として史上最高となる13,000人を記録。2025年にはヨーロッパ七都市を巡るツアーを実施し、世界的なホールへのデビューを果たす。11月には、ニューヨークのカーネギー・ホール大ホールでのソロ・リサイタル・デビュー公演を成功させた。

 


寄稿者プロフィール
高野麻衣(たかの・まい)

上智大学文学部史学科卒業後、音楽雑誌記者を経て作家に。音楽や映画、マンガ・アニメなどのカルチャーを幅広い視点で紹介している。音楽や歴史人物に材をとった小説、メディア脚本も多数。おもな著書に小説「F ショパンとリスト」(集英社文庫)、エッセイ「マンガと音楽の甘い関係」(太田出版)などがある。
https://mai-takano.com/

 


LIVE INFORMATION
角野隼斗 全国ツアー2026 ”Chopin Orbit” supported by ロート製薬

2026年1月30日(金)長野・八ヶ岳高原音楽堂
2026年2月1日(日)神奈川・横浜みなとみらいホール
2026年2月3日(火)茨城・水戸市民会館 グロービスホール
2026年2月7日(土)北海道・帯広市民文化ホール
2026年2月8日(日)北海道・札幌コンサートホール Kitara
2026年2月11日(水)秋田・あきた芸術劇場ミルハス
2026年2月13日(金)東京・東京芸術劇場 コンサートホール
2026年2月15日(日)大阪・ザ・シンフォニーホール
2026年2月17日(火)京都・京都コンサートホール
2026年2月21日(土)広島・三原市芸術文化センター ポポロ
2026年2月22日(日)香川・レクザムホール(香川県県民ホール)
2026年2月24日(火)福岡・アクロス福岡 シンフォニーホール
2026年2月25日(水)熊本・熊本県立劇場 コンサートホール
2026年2月27日(金)愛知・愛知県芸術劇場 コンサートホール
2026年3月1日(日)東京・サントリーホール
2026年3月2日(月)東京・サントリーホール
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