歌劇「400歳のカストラート」
永遠の命を与えられたヴィルトゥオーソの生涯を描く、未曾有のファンタジー
西洋音楽史において、禁断のcastrato(去勢された男性歌手)が果たした歌唱芸術の伝説は今もなお語り継がれている。女性が歌うことを禁じた教会で、変声期前の男子の身体の一部を切断し、輝かしい高音域を維持したままで力強い声を持つ歌い手を作り出す“裏技”はスペインで発展。その名人芸的歌唱は、17世紀頃からイタリアを中心に教会音楽からオペラ・シーンに進出して18世紀に全盛期を迎え、映画「カストラート」で知られるファリネッリのような、富と名声を手にするスター歌手も登場した。そのため、成功を夢見て我が子を犠牲にする貧困層の親たちが後を絶たず、イタリアだけでも年に3,000人以上の少年たちがこの忌まわしい手術を施されたという。しかし音楽におけるロマン主義時代の到来や、フランスを中心とした啓蒙思想の発達などによって、19世紀の初めからカストラートは劇場から姿を消していった。
一方で、20世紀のなかばになると、イギリス人歌手アルフレッド・デラーにより、成人男性が裏声(ファルセット)や頭声を使って高い音域を歌う、カウンターテナーが大復活を遂げる。この技法は古くから教会で用いられていたが、カストラートの登場と衰退、その後の女性歌手の活躍によって長らく日の目を見ることなく、英国伝統の合唱団のなかで細々と受け継がれていたのだった。時代考証に基づいてバロック音楽などの普及に努めたデラーの働きで、カウンターテナーは再生の道を開かれ、それからは世界中に浸透していく。近年活躍めざましい、我が国が誇る藤木大地(1980年生まれ)もその流れを汲むひとりである。
そんな彼が主役を務め、2020年2月に東京文化会館で初演された「400歳のカストラート」は、衝撃的な舞台作品だった。先述したようにカストラートとカウンターテナーでは、声を出す仕組みはもちろんのこと、その歩んできた歴史も違い過ぎる。〈天上の響きを持つ声と引き換えに、アイデンティティや心の平静さを奪われたであろう、妖しくもスキャンダラスな歌手、しかも400年も生きた「怪物のような」カストラート「ダイチ」を、今をときめくカウンターテナーが演じるなんて……〉と危惧したのもつかの間。幕が上がり物語が始まると、一気にその世界に引きずり込まれた!
作品は大和田獏と大和田美帆の朗読を交えた芝居形式だが、ステージにはピアノと弦楽四重奏が編成として組まれ、歌唱曲を中心にストーリーが進行。技巧を凝らしたバロック・オペラのアリアやオペレッタ「こうもり」からの“お客を呼ぶのが好き”などでは藤木の歌声が炸裂し、そこかしこで、音楽監督と自らピアノ演奏も務める加藤昌則の手掛けた編曲の妙が冴えわたる。しかし本作が単なるリサイタルを超えて聴衆の心を掴むのは、そこに人間の葛藤や苦悩を描いたドラマがあるから。1幕の最後に登場するラフマニノフの“ヴォカリーズ”は、不老不死を得た代償として大切な人との様々な死別を経験する、主人公の悲しみと見事にシンクロしていたし、第2幕のクライマックスで歌われる木下牧子の佳曲〈鷗〉は、まるでこの場面のために書き下ろされたかのようだった。ラストで披露された新曲〈絶えることなくうたう歌〉を聴いていると、目の前のステージに400歳の〈ダイチ〉が立っているような不思議なリアリティに包まれ、涙を抑えることができなかった。
その「400歳のカストラート」が今年、東京ほかで待望の再演を果たす。音楽史を追うような視点で藤木自身が選曲したラインナップを聴くだけでも楽しめるが、やはり「毛皮のマリー」や「はなれ瞽女おりん」などの作品で人間の〈業〉を鋭く描き出していた人形劇界の鬼才・平常(たいらじょう)が担当した素晴らしい脚本(※演出・美術も)にも期待して欲しい。特に萩尾望都の名作「ポーの一族」を筆頭に、永遠の時を生きる運命を背負わされた吸血鬼のファンタジーなどを愛する人にぜひ、お薦めしたい。
PROFILE: 藤木大地(Daichi Fujiki)
カウンターテナー。2017年、ウィーン国立歌劇場に鮮烈にデビュー。2012年第31回国際ハンス・ガボア・ベルヴェデーレ声楽コンクールにてハンス・ガボア賞を受賞。同年、日本音楽コンクール第1位。2013年ボローニャ歌劇場にてグルック「クレーリアの勝利」マンニオ役でヨーロッパデビュー。国際的に高い評価を得る。バロックからコンテンポラリーまで幅広いレパートリーで活動を展開し、デビューから現在まで絶えず話題の中心に存在する、日本が世界に誇る国際的なアーティストのひとりである。洗足学園音楽大学客員教授。横浜みなとみらいホール プロデューサー 2021-2023。
LIVE INFORMATION
歌劇「400歳のカストラート」
2022年6月26日(日)東京・上野 東京文化会館 小ホール
開演:15:00
2022年7月3日(日)愛媛 西条市総合文化会館 大ホール
開演:13:00
2022年7月10日(日)三重 四日市市文化会館 第一ホール
開演:14:00
藤木大地(企画原案/選曲/カウンターテナー)
平常(脚本/演出/美術)
加藤昌則(音楽監督/作曲/編曲/ピアノ)
大和田獏、大和田美帆(朗読)
成田達輝、周防亮介(ヴァイオリン)
東条慧(ヴィオラ)
上村文乃(チェロ)