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〈弦楽四重奏〉の概念を変えたクロノス・クァルテット、19年ぶりの来日!

 クロノス・クァルテットが19年ぶりに来日するというニュースには、いささか心躍らされるものがある。彼らのコンサートはこれまでに何度となく聴いてきたが、そこにはいつも一歩先を照らし出すような見識が感じられ、演奏に裏切られることはなかった。

 クロノスをはじめて聴いたのは1980年代にカリフォルアに留学していた時だった。1984年、カリフォルニア芸術大学の現代音楽祭で、彼らはいくつかのコンサートに出演し、コンロン・ナンカロウやジャチント・シェルシの弦楽四重奏曲などの作品を披露した。ナンカロウが〈発見〉されてまだ日も浅く、シェルシについてもその実像がほとんど知られていない時期だった。またクロノスは、テリー・ライリーのコンサートにも出演し、ライリー本人や他の演奏家とともに“インC”の演奏に加わって、西海岸ならではの独特の雰囲気を味わわせてくれたのだった。当時の4人のメンバーが赤と黒のタキシードや銀色の宇宙服のようなスタイリッシュなユニフォームを着用し、颯爽と登場していたことも忘れることのできない光景だ。

 クロノス・クァルテットは〈弦楽四重奏団〉という言葉で括られるような従来型の演奏グループではない。作曲家たちとともに新しい音楽を積極的に作り出し、進むべき方向性を提案していく、クリエイティブな音楽家たちである。その活動は弦楽四重奏の〈新しいレパートリーの開拓〉という月並みな言葉では汲み尽くすことのできない、波及力のある豊かな可能性をもたらすものだった。今でこそ、ジャズやポピュラー系の音楽に手を広げる演奏家たちはさほど珍しくはなくなっているが、きわめて早い時期にジャンルを越境し、〈弦楽四重奏〉の概念を変えたのは、まさしくクロノスだった。

 そうした姿勢を象徴するのが、ジミ・ヘンドリックスの“パープル・ヘイズ(紫のけむり)”の演奏だった。ストラヴィンスキーの“春の祭典”の編曲を取り上げた1979年のコンサートのアンコールではじめて演奏されると、一躍脚光を浴び、一時期はクロノスの代名詞にもなった。「ローリング・ストーン」誌は〈新しい驚くべき4人〉という見出しの記事で、〈ロック・スターのような衣装でジミ・ヘンドリックスやジェイムズ・ブラウンを演奏する〉と報じた。“紫のけむり”は日本公演ではアンコールの定番となり、その痺れるような演奏に魅了されたファンはこの曲を聴くまで帰ろうとはしなかった。

 クロノスのジャンルの横断はさらに多様さと広がりを加えていった。アストル・ピアソラのタンゴ、セロニアス・モンクやチャールズ・ミンガスのジャズは序の口だった。弦楽器コラを演奏するフォデイ・ムサ・スーソやタール(太鼓)を演奏するハムザ・エル・ディンなど、アフリカの音楽家たちとの共演による『アフリカン・アルバム』は衝撃をもって迎えられた。さらにルーマニアのロマ音楽のグループ、タラフ・ドゥ・ハイドゥークスとも一緒に演奏し、ボリウッド映画(インド映画)のアルバムでは、タブラのザキール・フセインと共演した。その射程はマショーやヒルデガルト・フォン・ビンゲンなどの西洋の古楽にも広がり、また世界各地の民謡や伝承曲、トゥバの喉歌(ホーミー)にまで及んだ。

 世に知られていない作曲家を掘り起こす仕事でも、クロノスの貢献は際立っていた。南アフリカ生まれのアイルランドの作曲家ケヴィン・ヴォランズの音楽は、ジンバブエの親指ピアノの音楽の研究と実践を踏まえてつくられたものだが、その素朴で新鮮な輝きに満ちた音楽はクロノス抜きでは語ることができない。アゼルバイジャンの女性作曲家フランギス・アリ=ザデーも含め、クロノスによって知られるようになった作曲家は少なくない。

 こうした活動はたんにレパートリーを増やすという次元を超えて、音楽のあり方の転換を促す。古今東西のあらゆる垣根を取り払った新たな地平を切り開いて、何ができるのかを問いかける大胆にして革新的な試みとも言える。前衛音楽の作曲が停滞していくなかで、クロノスの活動は新しい時代の風を予感させるものとなっていったのである。