ロックで『狂気』を超えるサラウンドはなかなかない
4チャンネルLP用マスターをマルチチャンネル付きSACDへ移植したソフトは結構な数が出ている。史上初のマルチ付きSACD『Tubular Bells』から始まって、ディープ・パープル『Machine Head』EMI盤(ワーナージャパン発売の国内盤SACDとは異なる)、サンタナ『Caravanserai』、ジェフ・ベック『Blow By Blow』『Wired』、ムーディー・ブルース全盛期のアルバム群などが挙げられる。それらの音は確かにサラウンドするが、再生機器の性能が上がったぶん不自然に聞こえてしまう要素も多い。今はメディアも信号処理もデジタルで行うからノイズは少ないし、チャンネルセパレーションも理想値に近付いた。その結果、すでに必要がなくなった泣き別れミックスが目立ってしまう。
SACDのソフト規格をよりよく生かすには、やはり現在の再生装置に合わせたサラウンドミックスを作る方が合理的だ。フロイドのメンバーやスタッフもそのように考えて、新しいミックスを立ち上げたと察する。したがって、『狂気』50周年盤の金帯にある〈「4チャンネル」RMサウンド〉の文言は単に当時の帯を復刻したもので、中身の音は2003年盤に準じる。これは重要なポイントで、私が教員なら期末テストに出します。
4チャンネルLP時代の音源から現在のBlu-ray Audioに至るまで、決して少なくない数のアルバムがサラウンド化された。デジタル規格のディスクで発売されたサラウンド作品は結構な数を聴いてきたが、いま確信を持って言えるのは〈ロック系で『狂気』を超えるサラウンド音楽がなかなか出現しない〉という事実だ。
サラウンドの使い方は多様で、ライブ会場の熱気を再現したり、楽器をリアに振ってフロントの音と対話させたりといった手法がある。しかし、アルバム全体のコンセプトがサラウンドを要求し、楽曲が最初からサラウンドを想定して組み上げられた作品はさほど多くない。おそらく最大の原因は〈サラウンドで音楽を作る発想が作り手の側にない〉ことだ。その発想をフロイドはライブで鍛え、スタジオで実践した。単に後ろへ音を回した小手先のサラウンドとは年季も情熱も違う。早くから総合力で勝負したバンドならではの戦略と工夫が見られる。
クラシックのソフトでは、コンサートホールの雰囲気や残響を再現するのが目的の〈音場再現型サラウンド〉が主流だ。それに対して、フロイドのようにリスナーの周囲で縦横無尽に音を動かしまくり、必要なら効果音を援用するタイプを〈音場創造型サラウンド〉と呼ぶ。後者のジャンルで評者が傑作だと認定するのは、冨田勲の諸作品、芸能山城組による『交響組曲AKIRA』(規格はDVD-Audio)、そしてフロイドの『狂気』。この三極に尽きる。どれも録音の段階からサラウンドを想定した作品であり、サラウンドではない2チャンネルステレオミックスでは力がかなり落ちてしまう。CDや通常のLPといった2チャンネルステレオのソフト規格に盛り付けるだけで事足りる録音素材を後付けでサラウンドに拡張するのは、やはりどうしても無理がある。
是非『狂気』をサラウンドで聴いてほしい
同じアルバムを聴くのでも、2チャンネルステレオとサラウンドでは全く異なる体験となる。その違いを言葉で伝えるのは難しい。なので、中古の機材でも安物でも構わないから是非『狂気』をサラウンドで聴いていただきたい。
オーディオマニアや評論家の先生方は〈サラウンド再生をやるなら最低でも12畳、できれば20畳の部屋が望ましい〉などと非現実的なことを平然と言うのだが、そういった極論がサラウンドの普及を妨げた面は否定できない。〈クルマに乗るならロールスロイスかランボルギーニを買って下さい〉とは言わないでしょう? クルマに乗る楽しみや利便性は、たとえ軽乗用車であっても充分に味わえるのと同じだ。再生時の音量も、そんなに上げなくて大丈夫です。むしろ小音量で聴いても満足感が得られるのがサラウンドの効用でもあるのだ。
一つだけお願いしたいのは、テレビの前に置くようなサラウンド機能付きのサウンドバーではなく、5本ないし6本の独立したスピーカーと、それらから音を出せるアンプやプレーヤーを用意してほしい。バー1本で完全なサラウンド再生ができるなら苦労はない。
SACDの5.1チャンネルは古くなっていない
『狂気』50周年盤の海外盤は、ここで紹介した国内盤と商品の内容が違っている。大きな特色はBlu-ray Discが同梱されていて、サラウンドをさらに発展させたDolby Atmos規格でアルバム全曲を聴ける点だ。この違いを指摘して〈国内盤は30年前と同じ音しか入っていない〉〈Dolby Atmosがないからダメだ〉と主張するマニアもいる。

PINK FLOYD 『The Dark Side Of The Moon - 50th Anniversary Box Set』 Pink Floyd/Legacy(2023)
だが、ここでリスナー側の状況に目を向けてもらいたい。実際に5.1チャンネルで音楽再生を楽しんでいる人が、自分の知人や親類縁者、職場に何人いるか。一人でもいるなら、それは例外的なケースだ。正確な数字は公表されていないが、サラウンド再生の世帯普及率は1%にも届かないだろう。ましてやスピーカーを天井にずらずら設置して本格的にDolby Atmosを楽しんでいる人は、さらに少ない。日本全国に何百戸あるのか。
ということは、再生側の環境を見ればSACDの5.1チャンネルはリリース後20年経ってもぜんぜん古くなっていないのである。5.1付きSACDやDolby Atmos付きBDを買ってもコレクターズアイテムとしてキープする人がほとんどで、実際にサラウンド音声を聞ける人はごく僅かという状況が今なお続いている。これは本当にもったいない話であって、残念としか言いようがない。サラウンドの再生装置を担いでご自宅まで伺って聴かせたいぐらいだ。
率直に言えば、5.1さえ満足に使いこなしているとは言えない現生人類にとって、Dolby Atmosは商用化を急ぎすぎた規格ではないのか。家電メーカーの人たちは新しい製品がバンバン売れれば儲かるだろうし、音作りの可能性を追求するのは構わないのだが、もうちょっと現実を見てほしいなと思っている。