「線の⾳楽」。
独⾃の⾳楽世界を形作る作曲家

 『ものがたり西洋音楽史』(岩波ジュニア新書、2019)を、近藤譲はこう書きだしている。

 「歴史」は、過去のできごとや事柄の単なる記録ではありません。「歴史」とは、過去のさまざまな事実や、事実であったろうものをつづり合わせて描かれた、ひとつの「物語」なのです。無数にある過去の事実をどう選り分け、それらの中からどれを取り上げるかによって、また、たとえ同じ諸事実を取り上げたとしても、それらをどのように解釈し、どのような見方からつづり合わせるかによって、この「歴史という物語」は異なったものになります。

 「若い世代」にむけたシリーズなので、語りかけるようなですます調で記されているが、ここで言われていることに既視感、いや既読感をおぼえたのは錯覚だったのか、どうか。わたしは、作曲家──であり音楽学者──が、かつてみずから作曲する際、ひとつの音をじっくり聴き、つぎの音をまたじっくりと聴いて、すすめてゆくとの文章をどこかで読んでいた。

 今回の「コンポージアム2023──近藤譲を迎えて」のフライヤーにはこういう文章があった。

 これは良いなと思う最初の1音を決める。その音を繰り返し聴いて次にどのような音を置いたら良いか考える。これで良いと思ったら、3音目を考える。──4音目、──5音目。線のようにそれはつながっていく──。

 言われていることを、先の「歴史」と出来事、事柄と照らしあわせてみる。音楽は、近藤譲の音楽=作品は、「歴史」とはもちろん違う。それでも、近藤譲の点が、点のままでなく、つながって線になってゆくさまと「歴史」との、共通なものが感じられる。すくなくともわたしには。

 出来事や事柄と口にだし文字にするとき、それはことばであり、抽象だ。ひと言でまとめてしまっても、現実はヒトやモノがいくつも含まれ、重層している。音だってそうだ。1音、と単純にいうが、1音とはなんだろう、どんなふうだろう。自然界に純音はない。楽器の音はいろいろな倍音を含む。「繰り返し聴」くひとつの音、それはまた、時間のながれのなか、「次」の音へとつなげられるが、そもそも「1音」は、ただひとつの楽器の音だけにかぎらない。きこえる、認識できるのはひとつの音かもしれないが、複数の楽器の音がひびいてひとつになっている、「1音」として聴いているかもしれない。その音は、しばらく聴いているうちに、ひとつでありながら、変化する、かもしれない。「繰り返し聴」きかえされる音は、短いだろうか、長いだろうか。短くても、くりかえされるなかで、ある持続となり──。

 フライヤーの文章は、近藤譲じしんのものではない。作曲家が書いたり語ったりしたものをコンパクトにまとめたもので、ここが出典、とは、正確に言えない。それでも、どこかでおなじようなことを読んだし、作曲家も認めているからこそ、こうやってフライヤーとして目にふれている。そして、あらためておもう。この短い文章が近藤譲の作曲のしかたを、ごくごく単純化していながら、基本姿勢であろうこと、また、このことばに寄り添って、こんなふうにつくられているなら、聴く側も、おなじようにして、聴いていったらどうか、と示唆されているということ、を。

 ある音があり、つぎの音、2つ目の音がある。また次の音、3音目がある。2つ目は1つ目から導かれ、「良い」とされ、3音も同様。そんなのはあたりまえじゃないか。つぎつぎにひびく音を耳はごく自然に追ってゆくのだし。でも、でもだ。ついつい、耳は音と音とのつながりをききそびれる。ききおとす。作曲家が作曲しているようには聴いていないし、聴けない(いや、作曲家じしんでさえ、も)。しかも作曲家が作曲する際に「繰り返し聴い」た音は、作品としてひびくとき、瞬時に消えさり、瞬時につぎの音に変わり、またつぎの音に、つぎのつぎの音に、なる。

 これは、メロディが天啓のようにおりてきたり、ハーモニーがひらめいたり、一挙に楽曲全体がみとおせたり、とは違う。冒頭に引いた「歴史」「物語」のありかたをあらためて、想いおこしてもいい。ひとつひとつの出来事・事件をつなげる「歴史・物語」ではあるが、「歴史・物語」の「語り手」は、あらかじめ「出来事・事件」を知っていて、これらをどうつなげてゆくか熟考し、操作する。ニュアンスを、緩急を、声音を変え、クライマックスをつくりもしよう。出来事・事件は、しばしば、歴史・物語のながれや、聴きてへの効果に奉仕し、個々の出来事性・事件性を蔑ろにもする。ありていにいえば、ある一定時間のなかで語られる(演奏される)音楽=物語の体感に重心がある。だが、近藤譲の音楽はそのようにつくられていない。語り手の作為に距離をとり、ある意味ではクールに、ある意味ではプリミティヴに、「聴く」ことを、「聴く」対象としての音楽作品を提示する。近藤譲の音楽は、この列島で近代に親しまれてきたことば、音の楽しみ、という、エンタテインメントを優先することばのニュアンスを裏切っているかもしれない(それはまたべつの意味での快楽にほかならないのだけれど)。