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祝40周年! 超駆け足で振り返るボン・ジョヴィのヒストリーとディスコグラフィー

 日本記念日協会によってこのたび5月21日が〈ボン・ジョヴィの日〉に制定された。これは40年前=84年の同日にボン・ジョヴィのファースト・アルバム『Bon Jovi』が日本盤リリースされたことに由来するものだ(邦題は『夜明けのランナウェイ』)。それから40年もの歳月が流れたものの、長年かけて培われてきた日本のリスナーと彼らの絆は固い。自身のネタで“It’s My Life”を使用してきたなかやまきんに君は現在バンドの〈公式アンバサダー〉を務めているし、ひと昔前には公式の映像に替え歌を乗せたCMがあったことを記憶している人もいるだろうが、そのような楽しまれ方すら許容されるぐらい、日本におけるボン・ジョヴィの支持には揺るぎないものがあるのだ。日本盤リリースからわずか3か月後に〈SUPER ROCK ’84 IN JAPAN〉出演のため初来日を果たした彼らをいち早く発見し、頂点へと駆け上がる過程を目撃してきたのは日本のリスナーにとっての美しい思い出に他ならない。感激したバンド側が“Tokyo Road”(85年)を書いたというのもよく知られた話だ。そんな関係をバックグラウンドに、海外アーティスト初の5大ドームツアー(2003年)を行うなど、ライヴ動員の面でも彼らが日本における〈洋楽〉アクトのさまざまな先例を作ってきたのは言うまでもない。ここでは40周年の節目に改めて彼らの足取りを簡単に辿っておくことにしよう。

 

飛躍的な成功

 ニュージャージー出身、62年生まれのジョン・フランシス・ボンジョヴィ(綴りはBongiovi)は、13歳だった75年に最初のバンドで演奏活動を始めている。16歳のときには友人のデヴィッド・ブライアン・ラッシュバウム(キーボード)とバンドを結成して活動するも、デヴィッドは医業を志してバンドは解散。その後のジョンは従兄トニー・ボンジョヴィが共同所有するマンハッタンのパワー・ステーション・スタジオに職を得て、業務の傍らプロ・デビューをめざしてデモを録音していた。そこで評価されたのが81年に録音された“Runaway”で、82年には地元の敏腕スタジオ・ミュージシャンと再録音。そこで演奏したなかにベーシストのヒュー・マクドナルドがいた。翌83年になってローカルのラジオで同曲が話題になると、レコード契約をめざすジョンはサポートのためにバンド・メンバーを集めることになり、旧知のデヴィッドに連絡。そこからアレック・ジョン・サッチ(ベース)とティコ・トーレス(ドラムス)が集まり、ジョンの友人デイヴ・セイボ(後にスキッド・ロウを結成)がギターに加わった。その短いツアー後、アレックとティコを介して出会ったリッチー・サンボラ(ギター)が加入し、クラシック・ラインナップが揃った。

 バンドが地元のタレントショウなどで名を広めていくとやがてマーキュリーの目に留まって契約が成立。ジョンはジョニー・エレクトリックというバンド名を希望していたが、スタッフからはヴァン・ヘイレンの例に倣って2単語のバンド名を提案され、バンド名はジョンの姓を綴り変えて〈Bon Jovi〉に決まった。

 そこから初作『Bon Jovi』(84年)、2作目『7800° Fahrenheit』(85年)と着実にステップアップ。そこから大きく飛躍するために彼らはプロのソングライターであるデズモンド・チャイルドと手を組んで曲作りを磨き上げ、ブルース・フェアバーンのプロデュースで3作目『Slippery When Wet』(86年)を制作したのだ。同作が全米1位を8週間キープし、そこから“You Give Love A Bad Name”“Livin’ On A Prayer”という2曲のNo.1ヒットを生んだのは、躊躇なく外部の血を取り入れるこのアプローチ変更の成果だろう。その絶大な成功は世界を飛び回る多忙なツアー生活と作品へのプレッシャーを招くことになるが、4作目『New Jersey』(88年)も世界的にヒットを記録。ただ、1年を超える世界ツアーに疲弊した彼らはバンドの活動休止を選んでいる。