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ラッキーオールドサン

東京インディーのハズレ者たち

──そこで、ラッキーオールドサンの存在が、NEWFOLKへ至る変化の鍵になるじゃないですか。

「ラッキーはkitiにとって新しい世代だったというのもあるかもしれない。彼らは中井さんと元々つながりがあったわけではなく、音源を送ってくれたんですよ。その内容がよかったので、ミニアルバム『I’m so sorry, mom』(2014年)がkitiからリリースされることになった。ちょうどそのタイミングで僕はアートユニオンに入社して、kitiを手伝うようになったんです。だから、彼らに関してはデビューする時から知っていて、2人と僕は世代も近かったので価値観があったというか、意識の共有がしやすかったのかなと」

──ラッキーオールドサンのバンドセットには、家主のギターの田中ヤコブくん、ドラムの岡本成央くんがいたし、拠点も東高円寺のU.F.O. CLUBだったりする別の流れがあった。

「彼らは他にも高円寺の無力無善寺や、スタジオライブができるリハーサルスタジオなんかを主に活動の場にしていたんですよね。ラッキーの篠原(良彰)くんと牧野ヨシがやっているCOPIESや、ナナちゃんがやっていた箔、その周辺には、ショウヘイマン(Superyou、ほたるたち)がやっていたSuper Ganbari Goal Keepers、バカみたい、そして家主もいました。シーンやムーブメントというほど大それたものではなく、それぞれが点在していたような印象で」

──〈東京インディー、2015年終了説〉という有名な言説があるんですが(笑)、須藤さんが当時気が付いていたバンドたちの話を聞くと、まだまだ面白い人たちがいたんですよね。次のことを考えるヒントになっていたような。

※編集部注 昆虫キッズや森は生きているが解散し、メジャーデビューしたバンドも多かったことから。後述する南池袋ミュージック・オルグも2014年末に閉店した

「そう考えると、僕自身は東京インディーと言われたシーンの渦中にはいたことがないんです。七針の世代があって、その次の世代が南池袋のミュージック・オルグとかによく出てたというのが、いわゆる東京インディーの大きな流れだった気がするんですが、どっちのコミュニティにも熱心に入り浸っていたわけではなくて。ラッキーや家主もそういうところにカテゴライズされていなかった人たちでしたね。東京インディーのハズレ者たちというか。そういうところにシンパシーみたいなものは感じているかもしれない」

──そこが今のNEWFOLKにつながりますよね。群れない人たちの集い、みたいな。NEWFOLKの始まりを語る上で欠かせないバンドである台風クラブも、京都のシーンを引っ張るとかそういう存在ではなかった。

「そうですね。台風クラブって、京都出身者はひとりもいないですからね(笑)」

──京都とか東京とか、ひとつの土地性にこだわってるところがないというのも特徴なのかなと思います。

「それはあるかもしれないですね。ライブツアーを組んでいろんな土地に行くときは、その土地で活動しているアーティストを僕が調べて対バンにブッキングさせてもらうことが多いんです。そういうことを続けていく中で、決して東京や大阪、京都みたいないわゆる都市圏だけが文化的な中心ではないと改めて気づくというか。当たり前のことなんですけど、動員とか知名度とか、活動が活発かマイペースかとかは関係なく全国各地で刺激的な活動をしている人たち、すごく良い曲を作っている、驚くような楽曲を演奏している人たちがいっぱいいるんだなと。

なので〈地方のバンドだから〉とか〈平日は仕事をしているから〉みたいなことを理由に、リリースを控えるみたいなことはするべきじゃないとは思っています。シンプルに、僕自身が心から良いなと思ったアーティストをサポートして、良い作品を世の中に出したい、それだけなので」