〈NO MUSIC, NO LIFE.〉をテーマに、音楽のある日常の一コマのドキュメンタリーを毎回さまざまな書き手に綴ってもらう連載〈LIFE MUSIC. ~音は世につれ~〉。今回のライターはカルロス矢吹さんです。 *Mikiki編集部

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 昨年11月、詩人の谷川俊太郎さんが亡くなられた。その業績は既に多くの媒体でわかりやすくまとめられており、追悼記念として雑誌や書籍が出版されることも間違い無い。このエッセイが発表される頃には、きっと何かしらが発売されていると思う。なので勝手ながら、本稿では昭和60年生まれの物書きである筆者からの極私的な目線で、氏の仕事ぶりを振り返らせていただきたい。

 谷川俊太郎という名前を認識したのは、大多数の日本国民と同じく中学1年生の頃。国語の教科書に掲載されていた「朝のリレー」を読んだ時だ。

「カムチャツカの若者が きりんの夢を見ているとき メキシコの娘は 朝もやの中でバスを待っている」

 まだ“カムチャッカ”という固有名詞もなんのことかわかっていなかったが、学がない中1でもわかる平易なことばを使いながら、この世界は広く、同時に繋がっていることを想起させてくれた。

 高校生になり、当時年の瀬に特番として放送されていた「朝まで生つるべ」という深夜番組を観た際、坂崎幸之助さんがフォークソングをカバーするコーナーがあった。それキッカケでフォークソングをディグる様になり、谷川俊太郎作詞の楽曲「死んだ男の残したものは」を知った(これも余談だが小室等さんではなく森山良子さんが歌っているものをTSUTAYAでレンタルしたはずだ) 。ちなみに、幼少期に読んでいた「スヌーピー」が谷川俊太郎訳だと知ったのもこのころのことだ。「詩を書く人」といえば、中原中也か秋元康という両極端しか知らなかった田舎の小僧にとって、谷川俊太郎の作品群は軽やかで、「こんな仕事の仕方もあるんだ」と凝り固まった頭をほぐしてもらった記憶がある。

 その後、大学入学を機に上京し、筆者も文章を書いて生計を立てる様になるのだが、一度だけ谷川さんに取材をお願いしたことがある。1964年の東京オリンピックに関わった人に話を聞いてまわる企画の中で、市川崑監督の映画「東京オリンピック」についてインタビューさせて欲しいと人伝に依頼したのだった。65年公開のドキュメンタリー映画だが、実はこの作品の脚本にも「谷川俊太郎」の名前がクレジットされていたのだ。関連資料を読み漁ったところ、記録映画ながらしっかりと脚本が準備されていることもわかっていたので、谷川さんが脚本という仕事を、そしてあのイベントをどう捉えていたのかを聞いてみたかった。残念ながらその時取材は実現しなかったのだが、丁重なお断りの連絡をいただき、逆にこちらが恐縮してしまったことを覚えている。

 そんなわけでしっかりと対面する機会はなかったが、実は学生時代に一方的な面識はあった。池袋の「ジュンク堂書店」で、朗読会・サイン会があった際、ちゃっかり並んで詩集にサインをいただいていたのだ。もちろんその時は「ありがとうございます」とお礼の言葉を発したのみだが、谷川さんは既に日本の文芸界が誇る大家であったにも関わらず、ふらりと書店にやってくる、そんなフットワークの軽さも兼ね備えていた。

 ご本人は、「詩人」という肩書きに大変こだわって、誇りも持っていたとお聞きしている。それを承知で、あらゆるジャンルを横断した谷川俊太郎の背中から筆者が学んだことは「“ことば”というフィールドの広さを限定せずに軽やかに活動する」というその姿勢だった様に思う。やたらと“分断”が叫ばれる現代だが、そんな時代だからこそ、谷川俊太郎さんは今後も我々文筆家のベンチマークになってくれるはずだ。

 


PROFILE: カルロス矢吹
作家。1985年、宮崎県生まれ。世界60ヵ国以上を歴訪し、大学在学中より国内外の大衆文化を専門に執筆業を開始。著書に「北朝鮮ポップスの世界」「世界のスノードーム図鑑」「日本バッティングセンター考」など。展示会プロデュース、日本ボクシングコミッション試合役員なども務め、アーティストやアスリートのサポートも行う。上田航平、ラブレターズ、Saku Yanagawa、吉住、Gパンパンダ星野の6名によるコントユニットTokyo Sketchersの米国公演準備中。

 

〈LIFE MUSIC. ~音は世につれ~〉は「bounce」にて連載中。次回は2025年2月25日から全国のタワーレコードで配布開始された「bounce vol.495」に掲載。