ブリットポップが最高潮に達し、終わりの始まりになった1995年。英国のロックシーンでは多彩なバンドが現れ、名盤を残し……そして散っていった。そんな同年の30周年を記念し、エディター/ライター妹沢奈美に当時の空気と作品を振り返ってもらった。 *Mikiki編集部
オアシスVS.ブラー、ブリットポップの終わりの始まり
1995年のイギリス。ロンドンのピカデリー・サーカスに面した一等地にはタワーレコードが鎮座し、目抜き通りのオックスフォード・ストリートにも巨大レコード店のHMVがあった。この年にリリースされたオアシス2nd『(What’s The Story) Morning Glory?』のカバー写真が撮られたソーホーのあのエリアは個人経営の良いレコード店が集まることで有名で、週刊音楽新聞の「NME」や「メロディ・メイカー」には勢いのある若手ミュージシャンが次々と表紙になった。1995年のイギリスでは、そんな風に音楽のまわりに人々が集まっていた。音楽が日常にきちんとあった。
思えば国営放送BBCのニュースがオアシスとブラーのシングル対決、いわゆる〈ブリットポップ天王山〉を報じたのは、他ならぬ1995年8月。そして、この瞬間からブリットポップのシーンは急速にしぼんでいく。興味深いことに、この年のマーキュリー・アワードを受賞したのはトリップホップの代表格だったブリストルのポーティスヘッド。そんな年だった。
ブリットポップの起点を1993年のスウェードのデビュー作リリースあたりに定めるなら、そこから2年、さしずめ1995年はインディーズギターロックがついに音楽シーンのメインストリームになった年といえる。オアシスは記念碑的2ndアルバム『(What’s The Story) Morning Glory?』を、ブラーはポップ方向に振り切った4thアルバム『The Great Escape』をリリース。ともに、もはや王者の風格だった。
エラスティカやスーパーグラスら華やかなデビュー組
一方、デビュー組も華やかだった。スウェードのブレット・アンダーソンやブラーのデーモン・アルバーンのガールフレンドとしても有名だったジャスティーン・フリッシュマン(リアム・ギャラガーがロッキング・オン誌のインタビューで発した「ボンベイロール」を記憶している人もいる?)率いるエラスティカは、1993年にデビューしていたが、1995年にようやくバンド名を冠したデビュー作をリリース。全英1位を獲得した。女性フロントマン繋がりでは、スリーパーやスカンク・アナンシーがデビュー作を、エコーベリーが2ndアルバムをそれぞれリリース。どのバンドも音楽性が異なるのがいい。
また、いまだに色あせないこの年のデビュー作2枚として挙げたいのが、スーパーグラスの『I Should Coco』とジーンの『Olympian』。前者は実力派らしく発売から2か月かけて評価を得て全英1位を獲得、後者は90年代のザ・スミスと評されたロマンチシズムで、ともに他のバンドたちとは異なる魅力を放っていた。
そして、忘れてはならない5人組メンズウェアもこの年にデビュー。スーツを着こなす華やかな存在感で、彼らは花火のように派手に美しく打ちあがった。すぐに消えたかと思いきや、今やドラムのマット・エヴェレットは音楽ジャーナリストとしてあのノエル・ギャラガーにも信頼される重鎮となり、ギターのサイモン・ホワイトは世界的敏腕マネージャーとしてブロック・パーティやフェニックスやザ・レモン・ツイッグスまで錚々たる顔ぶれを手掛けてきた。