dublab.jpでの近田春夫 × ピーター・バラカンのプログラム〈脱法ラジオ〉より

けっしてキャリアの短い人ではないのに、ここ最近、一見それぞれは無関係に見えるいくつかの興味深い場面で、原雅明の名前を目にする機会があった。あるときは〈Redbull Music Academy Tokyo 2014〉での中原昌也や鈴木勲らのインタヴュアー、あるいは冨田勲によるレクチャーの優れた導き手として、またあるときは、話題のムック「Jazz The New Chapter」の監修者・柳樂光隆が挙げる同著のインスピレーションの担い手の一人として。

近年では、世界中にファンを持つLAのインターネット・ラジオ、dublabの日本ブランチ〈dublab.jp〉の運営者としても意欲的な活動を展開する原氏が今秋、自ら〈レーベルと呼ぶにはややしっくりこない〉と語るringsをスタートさせた。

いま新たなアクションを起こそうとしている原雅明は何を考え、その自由なバランス感覚はどこに由来するのか。普段は、主役である音楽を紹介する立場に徹することの多い彼にじっくりと話をうかがうべく、dublab.jpのプログラムを定期的に配信している中目黒のカフェ・Malmoまで足を運んだ。


 

さまざまな音楽との出会い

――では、ここからガラッと話題を変えて、原さん個人の音楽遍歴などをおうかがいしつつ、原さんの考え方やバランス感覚の秘密のような部分に迫っていければと思います。いきなりベタな質問ですが、人生で一番始めに好きになった音楽は何ですか?

「初めから洋楽だった気がしますね。歌謡曲なんかも聴いていたけど、TVで見ていたくらいで、初めて買ったレコードもたぶんヴァン・マッコイ“The Hustle”とか。それからカーペンターズだったり」

ヴァン・マッコイの75年作『Disco Baby』収録曲“The Hustle”

――かなり早熟だったんですね。ご家庭はいつも音楽が流れているような……。

「いえいえ全然。最初はレコードプレイヤーも無かった気がする。お小遣いでレコードを買ってくるような子供でしたね。ビートルズを聴いてる子や、兄貴が音楽マニアという友達はいて、そこからレコードを借りたり」

――そのヴァン・マッコイから、どういったジャンルに流れたんですか?

「やっぱりビートルズとか聴き始めて、普通にロックなんかを聴いていましたね。ハードロックも聴いてたし、プログレにも寄ったり。でもそれくらいで、10代か20代の頃にパンクやニューウェイヴが来ちゃったので」

――リアルタイムですか?

「はい。突然それまで聴いていたロックが、なんだかカッコ悪いものに感じちゃいましたよね、そこから数年は」

――多感な時期にリアルタイムでパンクやニューウェイヴを体験した方は、哲学やアティテュードの部分で、その後もずっと大きな影響を受け続けている方が多いような印象を受けるのですが、いまの原さんご自身のなかで、当時のことから学んで生かし続けているような部分はありますか?

「あると思いますね、やっぱり自分がティーンエイジャーの時期だったから。初めはワケが分からなかったんですよ。いまのようにネットで簡単に情報が拾える時代ではないから、音楽雑誌のニュース欄の一番隅の方にちょっとだけ知りたいことが載っているような状況で。

ラジオでも渋谷陽一さんなんかがDJを務めた〈サウンドストリート〉でポップ・グループが突然かかって〈何だこれ!?〉って。パンクやニューウェイヴはそのあたりからですね。型にハマっていなくて何だかよく分からないけど、気になってしょうがないというか。その後にどんどん聴いていくと、〈あ、こういうムーヴメントだったんだ〉と分かるじゃないですか? いまの若い人には彼らなりのカルチャーがあると思いますけど、僕らの頃はそれが決定的な影響を与えた部分は強いと思います」

ポップ・グループの79年作『Y』

――でもそこからパンクの方向にはまっすぐ進まずに、ヒップホップだったりほかのジャンルに出会っていくわけですよね。

「ヒップホップは、ちゃんと聴き始めたのは少し後だったのかな。ハービー・ハンコックの“Rockit”のとき後ろにグランドミキサーDSTがいて、スクラッチしてるのを見て〈何なんだろう〉と驚いて。あとはパブリック・エナミーの登場から、それまで聴いていたニューウェイヴやインダストリアルとリンクして聴くことができるようになった感じですかね」

グランドミキサーDSTが参加したハービー・ハンコック“Rockit”のパフォーマンス動画

――テクノ/ハウス方面はいかがですか?

「テクノ/ハウスはその後ですね。初めはテクノとハウスの違いも分からなかった。それで……三田格さんだったかな、〈こっちの面がテクノでこっちの面がハウス〉っていう説明でカセットテープをもらって聴いた覚えがありますね」

――なんというエピソード(笑)! 当時、三田さんはもうどっぷりだったんでしょうか?

「どうなんでしょう、忌野清志郎のことを書いていた覚えもありますが、ちょうどテクノやハウスのことを書き始めた頃じゃないですかね」

――あの世代の方は、アシッド・ハウスにハマった方も多いような気がします。

「アシッド・ハウスやいわゆるセカンド・サマー・オブ・ラヴだったりは、僕は全然ハマっていないです。聴いてはいたけど、そっちには行かずにヒップホップとかの方に……でもクラブ・ミュージックとしては(テクノより)ハウスの方に影響されたと思います」

――それは感覚的なものですか?

「おそらくそうですね。ハウスの艶っぽい感じとか好きで、そこからちょっとチル・アウトして、ブレイクビーツにも繋がって、そこで再びジャズが入ってきて、という自分なりの繋がりがあったようには思います」

――ではジャズとの出会いはいつ頃ですか?

「ジャズは、パンクの頃にはもう聴いていましたね。でもそれは、マイルス・デイヴィスの70年代の作品だったり、ジョン・コルトレーンの後期の作品だったり、要はロックやノイズの文脈で聴いていたんだと思います。リアルタイムで聴いていたジョン・ゾーンなどもジャズとしては聴いてなかったです。

だから、スタンダードなジャズは当時は全然魅力が分からなかったですね。後でちゃんと聴けるようになったのは80年代後半から90年代に入ってくらいの頃だったと思います」

ジョン・ゾーン擁するネイキッド・シティのパフォーマンス動画

――耳が変わってきたということでしょうか。

「いろんな音楽を聴くようになっていたし、さっきも言ったように、ハウスやヒップホップを経由してジャズに再び出会ったというのが大きかったんでしょうね」

――ジャンルでは括りづらいですが、エクスペリメンタルな音楽はいつ頃から聴いていましたか?

「パンクとニューウェイヴの後からじゃないですか? そこからインダストリアルやノイズを経由して、その延長で電子音楽や現代音楽を遡っていくようになった感じです」

――いままでのお話の感じだと、80年代にはすでにいろんなジャンルの音楽を聴いていたようですね。

「雑食的でしたね」

――当時そのような聴き方をしているリスナーは多くなかったのでは?

「いや、むしろ昔の方がいたし、それが当然だったようにも思います。こないだの〈RBMA(Redbull Music Academy)〉での中原(昌也)くんへのインタヴューでも彼と話したんですが、83年にオープンした六本木WAVEに当時はいろんなジャンルのレコードがあって、民族音楽もあればハウスやテクノの12インチも置いてあるような状態で、そこに一日中いるようなこともありましたね。隈なく見て回って。そういう人も多かったように思います。いまみたいにネットで試聴できる環境もなくて、雑誌よりもレコード屋が一番情報が早かったし。

それと、僕はUKの〈WIRE〉という雑誌の周辺、特にデイヴィッド・トゥープの、ヒップホップから現代音楽までフラットに聴くスタンスにやはり大きく影響を受けているのだと思います」