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佐々木のパーソナリティが明かされてこなかった理由

そもそも、佐々木の背景やパーソナリティというのは、実はそこまで網羅的に、詳細に明かされていない。だから、熱心なファンでもこの本で初めて知る事実があるんじゃないかと思う。というのも、エバースの漫才自体がそうなのだが、ラジオやそれ以外の場所でも佐々木は相方の町田をいじること、町田のエピソードを語ることが圧倒的に多く、佐々木は自身のことを多弁に語るほうではない。

本書でも触れられているように、売れていなかった時代のエバースに目をかけ、転機をもたらしたのは、ライブ構成作家の山田ナビスコだ。佐々木がたびたび語っている逸話だが、山田が「ツッコミが町田じゃなくてもいいネタになっちゃっている。君がおもしろいのはわかったから、隣にいる町田をおもしろくしなきゃ意味がない」と指摘したことが、現在のエバースのネタ作りの起点になっている。本の中でも、〈おそらく大事だったのは、町田というものをどう理解するのか。町田をどうすればエバースのネタが面白くなるのか、ということだったんだと思います〉と述懐されているように。そういうわけで、エバースにおける佐々木の仕事の大半は、〈町田をおもしろくすること〉なのだ。

だからこそ、エバースの100%を担う〈100:0〉のブレーンでありながら、佐々木個人の話題は後回しにされがち。町田は町田で佐々木に興味がないのか、相方のエピソードをほとんど覚えていないので(それもどうかと思うが)、自然と町田がエバースの話題の中心になる。そういうわけで佐々木は、謎に包まれているというほどじゃないけれど、自身のエピソードも笑いに昇華させがちだし、よく知られていない面が存在する。それゆえに、佐々木が生い立ちや胸の内を曝け出したこの本を読む価値は大いにある。

 

なぜ佐々木はネタを緻密に構築できるのか?

エバースのネタは緻密に構築されている、とよく評価される。私もそう思うし、だからこそ彼らの漫才に夢中になった。たとえば、「M-1グランプリ2024」の決勝戦で披露し、エバースの名を一躍知らしめたネタ〈桜の木の下〉の構成。雑談のように自然な日常会話から始まり、一個ずつおかしなズラしを佐々木が加え、町田を巻き込んでいき、現実からかなりズレて解離した笑いの世界に観客を連れて行く――その映像喚起的な積み上げ方、展開の仕方が、とにかく巧みなのだ。

そして、もうひとつよく言われるのが、大学まで野球一筋で勉強をろくにしてこなかった佐々木が、なぜこんなネタを書けるのか?ということ。本書を読めば、その理由の一端が垣間見える。

たとえば、冒頭で描かれている小学生時代の自主練のエピソード。弱小高校に入った想定で甲子園を目指し、頭の中で詳細なストーリーや試合模様を組み立てながら、練習へ一心不乱に打ち込んでいたという(この部分を読んで、漫画家の藤本タツキが中学時代、脳内で空想の雑誌を作り、架空の漫画を複数連載させていた奇人エピソードを思い出した)。あるいは、NSC(吉本総合芸能学院)卒業後、ヨシモト∞ホール(現・渋谷よしもと漫才劇場)に所属したものの、月に2回しかライブがなかった時代の話。暇すぎて鬱屈としており、現実逃避するためにゲーム「パワフルプロ野球」を何十周もプレイし、選手のデータを詳細にノートに書き留めていたそうだ。また、ミヤギテレビ「OH!バンデス」のレギュラーコーナー「エバースの卵」で佐々木の実家に行った回も思い出す。そこでは、高校球児時代、試合や練習についてみっちりと書き込んだノートが映されていた。

つまり、何が言いたいのかというと、佐々木は、野球に対してもお笑いに対してもすさまじいほどに研究熱心で、ストイックに打ち込むことができる性質で(これは令和ロマンの髙比良くるまに通じるものがあるが、やはり方向性がちがう)、なおかつ想像力を自由に羽ばたかせるのが非常に得意だということ。だから、漫才をやるにしても、ネタを作り、現場で叩き、観客の反応を見ながら、猛烈なスピードでPDCAを回しまくっているのではないだろうか。常に楽天的で三大欲求に忠実な町田(本書では同居時代を振り返って〈猛獣〉と書かれている)とは真逆で、佐々木はかなり反省癖がある。鍛冶職人のようにネタを叩いて磨いていくストイックさが佐々木の本質であり、だからこそあの隙のないネタを生み出せているのでは?