〈メロディック・パンク〉を日本に定着させたバンドの一員として、キャリアのスタートから〈伝説〉となった男。だからこその苦悩を次なる一歩に変えることで、彼はさまざまな名義を使い分ける音楽家として、また人気レーベルの主宰者として、独立独歩の道を進んできた。〈自分たちの手で新たな居場所を作る〉というシーンに登場した当初からのDIY魂をいまなお貫き、彼はこの先も往く。〈パンクス〉の名のもと、自分の生き方そのものを発信しながら……

 ギタリストとしての横山健のキャリアは、91年結成のHi-STANDARDから始まっている。ハードコア・パンクの激しさにポップソングとしての普遍性を融合させ、鋲ジャンやブーツといった武装を好まないラフな普段着。しかし、ただカジュアルなだけでなく、過去の〈パンクかくあるべし〉をぶち壊す主張の鋭さを持った若者たちの音は、のちに〈メロディック・パンク〉と呼ばれ全世界を席巻することになるのだが、日本でいち早くその流れに呼応したのがHi-STANDARDであった。

 派手なメディア露出を避け、ライヴハウスにこだわり、バンドの方針すべてを自分たちで決めていくDIY活動は、時間をかけて大きなうねりになっていく。そこにはストリート系のアパレル人やスケーターなども自然に入り混じっていたから、ただの音楽に限らない、〈既存のブランドを否定し、自分たちで新たな居場所を作っていく〉という若者たち共通の認識があったはずだ。97年、98年、2000年に開催された〈AIR JAM〉がいまも伝説として語られるのは、これが大人に頼らない手作りのフェスだったから。夏フェスもまだ定着していなかった時代、ほぼインディーの仲間たちを集めて3万人ものキッズを動員した奇跡。不可能に見えることも可能になる。やりたいことはすべて自分たちの手でやれる。ハイスタは、そんな夢を最後まで貫いたバンドだったのだ。

Hi-STANDARDの99年作『MAKING THE ROAD』収録曲“Stay Gold”

 ただし、代償もある。背負うものが巨大になりすぎたのに、相変わらずすべてをDIYでやろうとした3人のバランスは次第に崩れ、2000年の〈AIR JAM〉を境にバンドは活動を休止。99年に本格始動した自主レーベルのPIZZA OF DEATHの代表を務める横山健の心労は特に深刻だったという。すべて忘れて心の洗濯をしたいとばかりに始まったのは新バンド、衝動と破壊のショート・チューンを得意とするBBQ CHICKENSだ。

 2000年、この頃はパンクをはじめとしたラウド・ロックを鳴らす後続バンドが次々とメジャー進出する時期だったが、BBQの初アルバムに『INDIE ROCK STRIKES BACK』という言葉が冠されていたのは興味深い。やりたいからやる、という単純さだけでは終わらない。本人がどこまで自覚的かはわからないが、みんなが行く道の反対を行こうとする、たとえ冗談に見えるものでも強い主張を加えることを忘れない姿勢は、すでに横山のなかで当然のアティテュードだった。そして言うまでもなく、これはハイスタのアティテュードでもある。バンドが空中分解したあともブランド力が消えなかったのは、その核がしっかりと生き続けていたからだろう。横山らメンバーのなかに、あるいはPIZZA OF DEATHのなかに。

 みんなが行く道の反対、というのは、時として自分たちが作った道の反対を行くことでもあった。明るく爽やかなメロディック・パンクのバンドは、実はPIZZA OF DEATHからほとんどリリースされていない。所属するのはポップ・パンクの潮流に与さない音と気骨を備えたバンドばかり。2002年から2年間、横山がギタリストとして加入していたthe 原爆オナニーズも然りである。

 BBQ CHICKENSの2001年作『INDIE ROCK STRIKES BACK』収録曲“Sick Guy / Stupid Magazine”