©Michael Ochs

成功したミュージシャンであり、それ以上に成功を極めたプロデューサーであり、音楽業界の最高位まで昇り詰めたレジェンド中のレジェンド。彼が凄いことは誰もが知っていても、その山は大きすぎて全容を一望することは難しい。そんなクインシー・ジョーンズの生涯とは……

 Qといえばクインシー・ジョーンズのことである。ファーストネームだけで語られるマイルスやエルヴィスやアレサ、もしくはイニシャルで通じるJBやMJやBBのような人はいるが、たった1文字で伝わる人もそうはいない。ただ、トランペット奏者から始まり、指揮者、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、映画プロデューサー、レコード会社の重役などさまざまな肩書きで活躍を続け、2024年11月3日に91歳で逝去するまで音楽業界の長老として君臨したこの人の、とても一口には語れない業績の凄まじさを簡潔に伝えるのなら、まずは数字の話からしておくのがわかりやすいだろう。彼は70年ものキャリアを通じて、グラミーを28回受賞し、「ルーツ」(77年)の音楽でプライムタイム・エミー賞、ミュージカル版「カラーパープル」(2016年)でトニー賞を受賞している。受賞はなかったもののアカデミー(特別賞は授かっている)やゴールデングローブのノミネートでも常連だった。

 そんな数の話が無意味だとしたらレスリー・ゴーアの全米No. 1ヒット“It’s My Party”(63年)に始まり、「質屋」(65年)や「夜の大捜査線」(67年)、「ミニミニ大作戦」(69年)といった映画音楽のプロデュースで成功、70年代からは自身名義のリーダー作でソウル方面にクロスオーヴァーを図り、その流れでマイケル・ジャクソンの輝かしい『Off The Wall』(79年)、『Thriller』(82年)、『Bad』(87年)という3作をプロデュースした実績も挙げられる。また、85年に当時のスターが勢揃いしたチャリティ曲“We Are The World”をプロデュースしたのも他ならぬクインシーだ。

 さらに、そうした功績の華やかさもさることながら、少年時代にレイ・チャールズと出会い、エルヴィスのTV初出演でバック演奏に参加し、売人だった頃のマルコムXからドラッグを買い、グレース・ケリーに招かれたモナコでフランク・シナトラと出会って密に交流を深め、シャロン・テート宅を訪れる予定を忘れていたことで難を逃れたり、アレサやスティーヴィーやマイケルとは各々がいずれも12歳の頃に出会い……と、彼の生涯そのものが魅力的なキャストに囲まれたエピソードの宝庫でもあった。

 

音楽と音楽ビジネス

 クインシー・ディライト・ジョーンズJr.は、1933年にシカゴで生まれている。母親のサラは銀行員で、父親のクインシーは大工でセミプロの野球選手でもあった。後にDNAを検査してルーツを辿ったところによるとジョーンズ家はアフリカ系の奴隷と欧州からの入植者の血を引くそうで、その移民の祖先には宮廷音楽家もいたという。それはともかく、母の歌う讃美歌に親しんで育ったクインシーの音楽への目覚めは、隣人の弾くピアノを聴いた5、6歳の頃に始まった。ただ、統合失調症を患って入院した母はやがて父と離婚し、幼いクインシーは弟と極貧の環境に置かれていたそうだ。しばらくして父は再婚し、継母の子どもたちを含む大家族になったジョーンズ一家は43年にワシントン州ブレマートンに移住。父が戦時下の特需から海軍の造船所に職を得たこともあって経済状況は安定したものの、継母に苛められた少年時代の体験は深いトラウマを残したという。

 終戦後の一家はシアトルに移住。クインシーは学校に通いながらトランペットの腕を磨き、14歳の時にはバンドに加わって演奏するようになる。この頃には年齢を偽って参加したショウの帰りに自動車事故に遭い、同乗していたバンド仲間全員が目の前で死亡するという壮絶な体験もしたそうだが、15歳の時に出会ったレイ・チャールズら周囲の才能にも刺激され、音楽家として大志を抱くようになる。51年には奨学金を得て進んだシアトル大学を1学期で離れ、ボストンのシリンガー・ハウス(のちのバークリー音楽大学)へ進学。その後はトランペット奏者としてライオネル・ハンプトンの楽団に加入し、プロのキャリアをスタートした。53年にはアイゼンハワーの大統領就任式でも演奏しているというから凄い。

 54年にハンプトン楽団を離れたクインシーは拠点をNYに移し、演奏や編曲などさまざまな仕事を引き受けながら徐々に名を広めていく。エルヴィス・プレスリーの最初のTV出演をサポートしたのもその頃だ。その後はディジー・ガレスピーのトランペット奏者/音楽監督として中東や南米のツアーに帯同し、帰国後にABCパラマウントと契約。自身の名を冠したバンドのリーダーとしてレコーディングのキャリアも踏み出している。57年にはパリに移ってナディア・ブーランジェとオリヴィエ・メシアンに音楽理論を学び、現地のレコード会社であるバークレーで音楽監督を務めた。

 一方で、その頃の彼は以降のキャリアを決定づける出来事に遭遇する。18人のミュージシャンを率いたビッグバンドを結成して北米や欧州をツアーして好評を博するも、大人数を維持するのに十分な収入が得られず、経済的な事情からバンドを解散してしまったのだ。優れたバンドをやむなく失った経験は、彼に〈音楽〉と〈音楽ビジネス〉の違いを突きつけたそうで、以降のクインシーは音楽を追求するために音楽ビジネスの世界でも立場を確立していく。

 彼がもっとも多忙だった50~60年代にはエラ・フィッツジェラルドやシャーリー・ホーン、ペギー・リー、ナナ・ムスクーリ、サラ・ヴォーン、ダイナ・ワシントンらのアレンジャーとして活躍している。そのなかで、61年にクインシーはアフリカ系アメリカ人として初めてマーキュリーの副社長に就任。62年には代表曲となる自作の“Soul Bossa Nova”をヒットさせた。後に映画「オースティン・パワーズ」(97年)で使用された同曲は、日本でもさまざまに転用されたことでお馴染みだろう。そこからはプロデューサーとしても多くのアーティストを手掛け、なかでもレスリー・ゴーアとは先述の“It’s My Party”からミリオン・ヒットを連発した。64年にはシドニー・ルメット監督の招きで「質屋」の音楽を作曲。その成功を受けてクインシーはマーキュリーを退社してLAに移住、主に映画音楽やTVドラマなどの作曲家として多忙を極めていくことになった。なお、この頃に手掛けたTVドラマ「鬼警部アイアンサイド」(67年)のテーマ曲“Ironside”は、ヒップホップのネタとしても名高いものだし、日本では70年代になってワイドショー「テレビ三面記事 ウィークエンダー」で使用され、近年は映画「キル・ビル」やバラエティ番組「ダウンタウンDX」で使われていて、そのスクープ感(?)の強い曲には多くの人が耳馴染みがあるはずだ。

 そんななか、66年には最初の妻と離婚しているが、その結婚で授かった娘がジョリーである(アル・クーパー“Jolly”のモデル)。67年には女優のウラ・アンダーソンと再婚(そこで産まれた息子がヒップホップ・プロデューサーのQDIII)するも、彼女と74年に離婚した翌日には女優のペギー・リプトンと結婚するという奔放さ。そのバイタリティを示すかのように69年にはA&Mとアーティスト契約してリーダー作のリリースも開始していたクインシーだが、多忙ぶりが祟ってか74年に脳動脈瘤を発症して以降は、それまでのワーカホリックな生活を止め、大きな仕事をマイペースに手掛けていくスタンスへのシフトを余儀なくされている。

 

永遠の功績

 78年にクインシーはダイアナ・ロス主演のミュージカル映画「ウィズ」で音楽を担当し、出演者のマイケル・ジャクソンからソロ・アルバムのプロデューサー候補を推薦するよう頼まれる。そこで結局みずからプロデュースを申し出た……というのも有名な話だろう。当時のクインシーはすでに45歳で、ジャズ界の実績が主となるヴェテランではあったが、70年代に入ってソウル/ファンクへと接近したリーダー作は軒並みクロスオーヴァー・ヒットを記録し、自身の後見するファンク・ユニットのブラザーズ・ジョンソンでは“I’ll Be Good To You”(76年)などのTOP10ヒットを連発していた。そうしたメソッドも注ぎ込む格好で生まれた『Off The Wall』(79年)はマイケルのその後のソロ・キャリアを運命づける記録的なヒットになり、その采配を評価されたクインシーもまた新たな全盛期へと突入していくことになる。彼の取ったプロデュース作法は、自身のリーダー作と同じく、優れたプレイヤーやソングライター、エンジニアらを適材適所で起用して楽曲を作り上げていくというもの。そのチームを機能させることでクインシーはコンテンポラリーなヒットを次々に生み出し、ワーナー傘下に新たに設立したクウェストからジョージ・ベンソンやパティ・オースティン、ジェイムズ・イングラムらをスターダムに押し上げていく。それに前後した81年には“Ai No Corrida”で知られる自身のリーダー作『The Dude』をソロ・キャリア最大級のヒットに導きもした。

 そうした状況を経て完成したのが、結果的に地球上で最大のセールスを叩き出したマイケルとの次作『Thriller』(82年)である。そして、そんな絶頂期を象徴する仕事が、エチオピアの飢餓被害者へを援助するためのプロジェクト=USAフォー・アフリカ名義でのチャリティ・ソング“We Are The World”(85年)のプロデュースだった。85年のアメリカン・ミュージック・アワード授賞式後に行われたレコーディングには、マイケルはもちろん、スティーヴィー・ワンダーやライオネル・リッチー、ダイアナ・ロス、さらにブルース・スプリングスティーンやビリー・ジョエル、ポール・サイモン、シンディ・ローパーら幅広いフィールドのトップスターが集結。そこにボブ・ディランや旧友レイ・チャールズまでを呼び寄せるパワーはビジネス面でも多大な影響力や人脈を誇るQならではの仕事ぶりだったと言えるだろう。さらに華やかな大仕事は続き、同じ85年には映画プロデューサーとしてのデビュー作となるスピルバーグ監督の映画「カラーパープル」を製作。同作はウーピー・ゴールドバーグとオプラ・ウィンフリーを世界に紹介する役割を果たした。

 一方で、マイケルと組んだ3度目のアルバム『Bad』(87年)では、引き続き共同プロデューサーにクレジットはされているものの、成長して自身のヴィジョンをより明確にしたマイケルとは衝突を繰り返す結果となり、前2作と比べてクインシーの役割は大きく後退。クインシーがアレンジに名を連ねている曲といない曲を聴き比べてみると何かが見えてきたりもする。もともと両者の間では3枚契約だったそうだが、これが2人が揃って仕事をした最後の作品となった。

 その『Bad』の頃が転換点ではあったのだろう。以降のクインシーは直接クリエイティヴ面にタッチするプロデュース業からは緩やかに手を引いていき、エグゼクティヴとしてプロジェクト全体を統括する、よりビジネス面に寄った動きへと軸足を移している。そのなかで例外だったのが自身名義のリーダー作で、89年のヒット作『Back On The Block』は当時では珍しいラッパーたちも輪の中に入れた新旧世代の音楽家たちの交流の場として機能した。続く95年の『Q’s Jook Joint』も同じくジャズやブルースからソウル、ファンク、ディスコ、ヒップホップまでの音楽を一本の流れで繋いで見せるプロジェクトとなり、その役割によってクインシーの名前は90年代に急成長したR&B/ヒップホップ・シーンにおいても親しまれていたはずだ。なお、90年代以降もクウェストはテヴィン・キャンベルやタミアといったクインシーお墨付きの新顔を送り出していたし、「Vibe」誌などのメディアを興して舞台裏で音楽シーンを支えていたことも忘れてはいけない。そのようにビジネスマンとしての権威を用いつつ、彼はまさにコンダクターとして業界全体をさまざまな角度から指揮し続けていたのだ。

 2010年にはハイチ地震の被災者支援のため、ちょうど25周年となった“We Are The World”の再レコーディングが行われているが、その際も多くのアーティストを指揮したのは当時77歳のクインシーであった。2010年代はニッキー・ヤノフスキーやアルフレッド・ロドリゲス、ジェイコブ・コリアーらを後見し、2020年にはトラヴィス・スコット&ヤング・サグによる“Out West”のMVに出演。音楽界の長老として振る舞いながら、2022年にはウィークエンドのアルバム『Dawn FM』で“A Tale By Quincy”としてモノローグを披露。2023年にはリメイク版「カラーパープル」のエグゼクティヴ・プロデューサーとしてクレジットされていた。

 この世を去る前の2024年6月にクインシーはアカデミー名誉賞を受賞している。審査によって選ばれるのではない特別賞もカウントすれば、彼はいわゆるEGOT(エミー、グラミー、オスカー、トニー)の持ち主でもある。ただ、そうした業界力学だけに彼の凄さがあるのではないということは、クインシーの手掛けてきた仕事に触れればわかるのではないだろうか。 *出嶌孝次

クインシー・ジョーンズが手掛けた作品。
左から、ダイナ・ワシントンの55年作『For Those In Love』(EmArcy)、レイ・チャールズの59年作『The Genius Of Ray Charles』(Atlantic)、ペギー・リーの60年作『If You Go』(Capitol)、ダニー・ハサウェイの72年作『Come Back Charleston Blue』(Atco)、アレサ・フランクリンの73年作『Hey Now Hey (The Other Side Of The Sky)』(Atlantic)、レスリー・ゴーアの76年作『Love Me By Name』(A&M)、78年のサントラ『The Wiz』(MCA)、マイケル・ジャクソンの82年作『Thriller』、同87年作『Bad』(共にEpic)、ドナ・サマーの82年作『Donna Summer』(Geffen)、ニッキー・ヤノフスキーの2014年作『Little Secret』(A440)、ノアの2019年作『Letter To Bach』(Naive)、2023年のサントラ『The Color Purple』(WaterTower)

クインシーの参加作。
左から、ジョン・ベリオンの2018年作『Glory Sound Prep』(Capitol)、コーデーの2019年作『The Lost Boy』(Atlantic)、ウィークエンドの2022年作『Dawn FM』(Republic)

クインシー・ジョーンズの生誕80年を記念したベスト盤『Q80 Greatest Hits』(ユニバーサル)

 

STUFF LIKE THAT!
クインシー・サウンドを作り出したさまざまな才能たち

 リーダー作やプロデュース作を通じて、活動開始してからジャズ〜ポピュラー畑を中心に数多くのミュージシャンやソングライターたちと関わってきたクインシーだが、何しろ50年代に活動を始めているわけで、後にジャイアンツとなる人たちとも若い頃に関わっていたりするのは当然だろう。そうしたジャズ界の同輩はもちろんながら、ブレーンとして重用した面々となると、すでに名のある顔ぶれ以上に、無名の段階からクインシーにフックアップされ、そこから名を上げて大きくなっていった面々が思い浮かぶ。

 まず名が挙がるのは、英国のバンドであるヒートウェイヴで活動していたソングライターのロッド・テンパートンだろう。また、スティーヴィー・ワンダーのバックにいてマイケル・ジャクソンも支えた鍵盤奏者のグレッグ・フィリンゲインズもそうだし、ブラザーズ・ジョンソンでブレイクしたベーシストのルイス・ジョンソン、そして他にもドラマーのジョン・ロビンソン、パーカッション奏者のパウリーニョ・ダ・コスタ、シンセなどを操るマイケル・ボディッカーもいる。さらに、彼らの作り上げたサウンドを独特のスタイルで記録するエンジニアのブルース・スウェディンの存在も重要だ。

 他にもソングライターとしてはグレン・バラードやサイーダ・ギャレットがQ様のお抱えのような存在として活躍していたことも忘れてはいけない。確かな才能を見い出されたクインシーのブレーンたちはいまも多方面で影響力を発揮し続けているのだ。 *大原かおり

左から、ヒートウェイヴの77年作『Too Hot To Handle』(Epic)、ブラザーズ・ジョンソンの80年作『Light Up The Night』(A&M)、グレッグ・フィリンゲインズの84年作『Pulse』(Planet)、サイーダ・ギャレットの88年作『Kiss Of Life』(Qwest)

 

DISCOGRAPHIC QUINCY JONES
クインシーを知るための13枚

QUINCY JONES 『The Quintessence』 Impulse(1961)

自身のオーケストラを率いてインパルスに残した唯一のリーダー作。フィル・ウッズ(サックス)やフレディ・ハバード(トランペット)らをフィーチャーした味わい深いソロと豊かなスウィングによってビッグバンド・ジャズの粋が楽しめる。セロニアス・モンク“Straight, No Chaser”のほか、タイトル曲など3つの書き下ろし曲も収録。

 

QUINCY JONES 『Big Band Bossa Nova』 Mercury/ユニバーサル(1962)

新しいリズムとして当時ブームだったボサノヴァをビッグバンドのアレンジで鳴らした人気作。クインシー自作の“Soul Bossa Nova”で冒頭から否応なく愉快な気分になり、ミンガスの“Boogie Bossa Nova”などの定番がラロ・シフリン(ピアノ)、ジム・ホール(ギター)、ローランド・カーク(フルート)らの演奏で軽快に披露される。

 

QUINCY JONES 『Walking In Space』 CTI/A&M(1969)

劇画的なメリハリのある楽曲が並んだA&M移籍作。ボブ・ジェイムズやバーナード・パーディ、ヒューバート・ロウズら馴染みの演奏陣が名を連ね、刺激的な展開を備えた長尺の表題曲ではヴァレリー・シンプソンがヴォーカルで参加。シメのラウンジーなゴスペル“Oh, Happy Day”も爽快だ。初めてジャズ・チャートで2位まで上昇。

 

QUINCY JONES 『Gula Matari』 A&M(1970)

13分近い起伏に多彩なリズムが交錯する自作の表題曲、ファンキーな“Hummin’”などアレンジャーとしての手腕が発揮された全4曲入りの力作。擬似ダイアナ・ロスのようなヴァレリー・シンプソンの可憐な歌唱と厚みのあるコーラスが温かい“Bridge Over Troubled Water”のカヴァーがとりわけソウルフルで印象的だ。

 

QUINCY JONES 『Smackwater Jack』 A&M(1971)

初めてジャズ・チャート首位を獲得した快作。キャロル・キング曲を同時代のブラック・ムーヴィー風に仕立てた表題曲やマーヴィン・ゲイの“What’s Going On”を収録し、クインシー自身の朴訥な歌声も全体のニュー・ソウル風情な路上感に直結している。日本でもとりわけ有名であろうキャッチーな“Ironside”もここに収録。

 

QUINCY JONES 『You’ve Got It Bad Girl』 A&M(1973)

後に定番ネタとなるラヴィン・スプーンフル“Summer In The City”のカヴァーを含め、ジャズ・ファンク路線に移行した人気作。スティーヴィー・ワンダーを2曲やる意図も明快で、自身の歌うメロウな表題曲、ビル・ウィザースとビリー・プレストンにスティーヴィー本人も交えてスライ調になる“Superstition”、どちらも最高だ。

 

QUINCY JONES 『Body Heat』 A&M(1974)

メロウに火照るタイトル曲で知られ、過去最高の全米6位まで浮上したヒット作。完全にソウル志向に舵を切り、アル・ジャロウらを含むヴォーカル隊とEW&F的な演奏の厚みで心地良いグルーヴを生み出している。表題曲などを共作したリオン・ウェアがミニー・リパートンとデュエットする“If I Ever Lose This Heaven”も素晴らしい。

 

QUINCY JONES 『Mellow Madness』 A&M(1975)

脳動脈瘤の手術後に作った初のアルバム。この後デビューを後見するブラザーズ・ジョンソンの二人を歌と演奏と曲作りで大きく前に出し、なかでもハーヴィー・メイソンを交えた“Tryin’ To Find Out About You”などではルイスのベースが炸裂しまくる。他にもリオン・ウェアやポーレット・マクウィリアムズらがヴォーカルを担当。

 

QUINCY JONES 『Sounds... And Stuff Like That!!』 A&M(1978)

チャカ・カーンとアシュフォード&シンプソンの歌う“Stuff Like That”がソウル・チャート1位を記録し、より親しみやすさを増したヒット作。パティ・オースティンとルーサー・ヴァンドロスが洒脱に送る“I’m Gonna Miss You In The Morning”、そのルーサーとグウェン・ガスリーによるドゥービーズのカヴァー“Takin’ It To The Streets”が出色。

 

QUINCY JONES 『The Dude』 A&M(1981)

プロデュース作品の大成功を受けてクロスオーヴァーを果たし、全米9位まで上昇した大ヒット作。大ヒットした“Ai No Corrida”もありつつ他はパティ・オースティンと新顔のジェイムズ・イングラムのクウェスト組に歌唱のメインを任せ、特にジェイムズは“One Hudred Ways”などのデビューに向けた上々の顔見世を果たしている。これがA&Mでの最終作に。

 

QUINCY JONES 『Back On The Block』 Qwest/Warner Bros.(1989)

ニュー・ジャック時代のリズムを纏って多くのラッパーを迎え、ビバップからヒップホップまでを繋ぐ意欲に満ちた大作。レイ・チャールズ&チャカ・カーンと再演した“I’ll Be Good To You”をはじめ、セクシーなスロウ・ジャム“The Secret Garden”、新人テヴィン・キャンベルの“Tomorrow”など前線で機能するR&Bヒットが生まれた。

 

QUINCY JONES 『Q’s Jook Joint』 Qwest/Warner Bros.(1995)

引き続き大御所から新人までを数多く招いて文化的な幅を広げた超大作で、時流を踏まえてクーリオらラッパーの割合が増す一方、ボノやフィル・コリンズも起用。新人タミアの名唱“You Put A Move On My Heart”も素晴らしい。過去名曲のリメイクも数多く、なかでもブランディ&ヘヴィDによる“Rock With You”が洒脱で最高だ。

 

QUINCY JONES 『Q Soul Bossa Nostra』 Qwest/Interscope(2010)

名曲を後進たちが再演したトリビュート盤っぽい作りながら、半数ほどの曲にQ自身もアレンジやプロデュースでタッチしたセルフ・カヴァー集。ほぼR&B/ヒップホップ勢で固められ、“Soul Bossa Nova”をやるリュダクリスを筆頭に、エイコンやスヌープ、ジョン・レジェンド、スリー6マフィア、ジェニファー・ハドソン、Q・ティップら顔ぶれも豪華だ。

 

OTHERDISCOGRAPHIC
Jazz Abroad(1955)
This Is How I Feel About Jazz(1956)
Go West, Man!(1957)
Quincy’s Home Again(1958)
The Birth Of A Band!(1959)
The Great Wide World Of Quincy Jones(1959)
I Dig Dancers(1960)
Around The World(1961)
Quincy Jones Plays Hip Hits(1963) ...and more!

 

PEOPLE TREE
耳で聴いたピープル・トゥリー

RAY CHARLES 『Genius + Soul = Jazz』 Impulse!(1960)

互いに10代で知り合ったレイを仕事上の手本とし、50年代からレコード上でもアレンジなどで貢献してきたクインシー。その後も“We Are The World”などの大舞台にたびたびレイを招き、90年代には自身の主宰するクエストに迎え入れたほか、死後のコラボ集『Genius & Friends』(2005年)でも総指揮を務めた。

 

FRANK SINATRA 『L.A. Is My Lady』 Qwest/Capitol(1984)

クインシーを〈Q〉と呼んだのは、業界の大首領たるシナトラで60年代にはカウント・ベイシー楽団との共演作でクインシーが指揮を担当したこともあった。こちらはクウェストにてクインシー制作/指揮で作られたヴォーカル・アルバム。ジョージ・ベンソンやボブ・ジェイムズらを召集した豪華な内容になっている。

 

MICHAEL JACKSON 『Off The Wall』 Epic(1978)

すべての可能性を開いた最初のプロデュース作品。ロッド・テンパートンによる“Rock With You”をはじめ、ルイス・ジョンソンやジョン・ロビンソン、デヴィッド・フォスターらがクインシーの采配で演奏に参加。もともとフランク・シナトラのためにキープしていたというバラード“She’s Out Of My Life”をここで提供したのもクインシーの英断だった。

 

MILES DAVIS, QUINCY JONES 『Live At Montreux』 Warner Bros.(1993)

クインシーが昔の曲を演奏するよう帝王を説得して実現したという、91年7月8日の〈モントルー・ジャズ・フェスティバル〉におけるパフォーマンスの模様を収めたもの。内容はギル・エヴァンスのトリビュートで、すでに重病だったマイルスにとって生前最後の録音となった。

 

PATTI AUSTIN 『Every Home Should Have One』 Qwest(1981)

クインシーにもっとも寵愛/重宝された女性シンガーのひとり。コーラスなどでたびたび起用された後、クウェストに移籍して放ったのがこちらのヒット作だ。ここからはジェイムズ・イングラムとのアダルトなデュエット“Baby, Come To Me”が全米No. 1を記録した。

 

LESLEY GORE 『I’ll Cry If I Want To』 Mercury(1963)

クインシーにとって最初の全米No. 1ヒットが、みずから見い出したこのNY出身のティーン歌手による“It’s My Party”(63年)。後にエイミー・ワインハウスにも歌わせた同曲を筆頭に、彼がマーキュリーを去るまでコンビでTOP 10ヒットを連発。思い入れがあったのか70年代にはA&Mで『Love Me By Name』をプロデュースした。

 

JOSÉ JAMES 『1978』 Rainbow Blonde/ユニバーサル(2024)

ナズとヒットボーイによる“Quincy & Michael”でも例えられた名タッグの仕事にオマージュを捧げたのが、78年をテーマにホセ・ジェイムズが作ったこちらのアルバム。軽快なディスコ調の“Saturday Night (Need You Now)”はモロに当時のクインシー&マイケル仕様だ。

 

久石譲, VIENNA SYMPHONY ORCHESTRA 『Joe Hisaishi in Vienna』 Deutsche Grammophon/ユニバーサル(2024)

日本が誇る名匠だが、その芸名がクインシー・ジョーンズの名前をもじって作ったものなのは知られた話。偶然なのか、もともと中学のブラスバンドではクインシーと同じトランペットを担当していたそう。さらには後に映画音楽の仕事を通じて名を上げていったという部分も共通している。

 

JACOB COLLIER 『Djesse Vol. 2』 Hajanga/Decca(2019)

もともとクインシーに才能を惚れ込まれ、バックアップを受ける形でクウェストから『In My Room』でデビューしていたジェイコブ。そこではクインシー縁の“P.Y.T.”カヴァーも披露していたが、こちらに収録されて話題となった144声もの合唱曲“Moon River”ではクインシーも声を重ねている。

 

2PAC 『All Eyez On Me』 Death Row(1996)

クインシーの愛娘キダダが婚約していたのは亡くなる前の2パックで、それと関係あるのか本作に収録の全米No. 1ヒット“How Do U Want It”はクインシーの“Body Heat”をネタ使いしたもの。死後の彼に捧げたポエトリー作品『The Rose That Grew From Concrete』にもクインシーは参加していた。

 

RUFUS & CHAKA KHAN 『Masterjam』 MCA(1979)

すでに前年の『Sounds...And Stuff Like That!!』で絡んでいたチャカ・カーンの在籍するバンドのヒット作。クインシーが『Off The Wall』と同布陣を伴ってプロデュースに参加し、“Body Heat”のカヴァーも披露。メンバーのデヴィッド“ホーク”ウォリンスキーは後にクインシー関連の諸作でも手腕を発揮した。

 

GEORGE BENSON 『Give Me The Night』 Qwest(1980)

ジャズ・ギタリストとして知られたベンソンをシンガーとして大成させたコンテンポラリーなヴォーカル・アルバムの名盤。クインシーが設立したレーベル=クウェストの第1弾作品とあって、クインシーの指揮下で馴染みのプレイヤーたちが鉄壁のサポート。ロッド・テンパートンによる洒脱なタイトル曲はNo. 1ヒットとなった。

 

VARIOUS ARTISTS 『We All Love Ennio Morricone』 RCA(2007)

60年代には同じ映画音楽の世界で腕を競ったモリコーネをクインシーは敬愛していた。珍しく参加したこちらのトリビュート企画では自身名義の“The Good, The Bad And The Ugly”をハービー・ハンコックと披露したほか、セリーヌ・ディオンの歌う“I Knew I Loved You”でもプロデュース/アレンジを手掛けている。