成功したミュージシャンであり、それ以上に成功を極めたプロデューサーであり、音楽業界の最高位まで昇り詰めたレジェンド中のレジェンド。彼が凄いことは誰もが知っていても、その山は大きすぎて全容を一望することは難しい。そんなクインシー・ジョーンズの生涯とは……
Qといえばクインシー・ジョーンズのことである。ファーストネームだけで語られるマイルスやエルヴィスやアレサ、もしくはイニシャルで通じるJBやMJやBBのような人はいるが、たった1文字で伝わる人もそうはいない。ただ、トランペット奏者から始まり、指揮者、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、映画プロデューサー、レコード会社の重役などさまざまな肩書きで活躍を続け、2024年11月3日に91歳で逝去するまで音楽業界の長老として君臨したこの人の、とても一口には語れない業績の凄まじさを簡潔に伝えるのなら、まずは数字の話からしておくのがわかりやすいだろう。彼は70年ものキャリアを通じて、グラミーを28回受賞し、「ルーツ」(77年)の音楽でプライムタイム・エミー賞、ミュージカル版「カラーパープル」(2016年)でトニー賞を受賞している。受賞はなかったもののアカデミー(特別賞は授かっている)やゴールデングローブのノミネートでも常連だった。
そんな数の話が無意味だとしたらレスリー・ゴーアの全米No. 1ヒット“It’s My Party”(63年)に始まり、「質屋」(65年)や「夜の大捜査線」(67年)、「ミニミニ大作戦」(69年)といった映画音楽のプロデュースで成功、70年代からは自身名義のリーダー作でソウル方面にクロスオーヴァーを図り、その流れでマイケル・ジャクソンの輝かしい『Off The Wall』(79年)、『Thriller』(82年)、『Bad』(87年)という3作をプロデュースした実績も挙げられる。また、85年に当時のスターが勢揃いしたチャリティ曲“We Are The World”をプロデュースしたのも他ならぬクインシーだ。
さらに、そうした功績の華やかさもさることながら、少年時代にレイ・チャールズと出会い、エルヴィスのTV初出演でバック演奏に参加し、売人だった頃のマルコムXからドラッグを買い、グレース・ケリーに招かれたモナコでフランク・シナトラと出会って密に交流を深め、シャロン・テート宅を訪れる予定を忘れていたことで難を逃れたり、アレサやスティーヴィーやマイケルとは各々がいずれも12歳の頃に出会い……と、彼の生涯そのものが魅力的なキャストに囲まれたエピソードの宝庫でもあった。