ロックンロール・バンドの美学にこだわり続けていた京都の青年と、バンドに憧れながら宅録ポップ・ユニットとして自主制作のアルバムをリリースした東京在住の青年。出会うはずもなかった2人の若者が、やがて自分たちのバンドを通じて巡り合った。台風クラブの石塚淳、そしてスカートの澤部渡。奇しくも台風クラブは素晴らしいファースト・アルバム『初期の台風クラブ』をこの8月にリリースし、スカートはポニーキャニオンから10月にメジャー・デビューを果たすことが発表された。この最高のタイミングで、シンガー・ソングライターとして、バンドマンとして、2人の数年越しの片想いと相思相愛を対談してもらった。
澤部さんは魔法使いの領域
――石塚くんと澤部くんは去年まで直接の接点を持っていなかったわけですけど、実は石塚くんはずいぶん長い間スカートへの片想いを抱えていたそうですね。
石塚淳(台風クラブ)「6、7年越しですね」
――そのきっかけから話しはじめてもらっていいでしょうか?
石塚「2000年代は僕の暗黒時代なんです。マジで何もしてない空白の10年。いまのシーンで何がアツいとか、そういうことをぜんぜん知らずにレコード屋で好きなレコードをひたすら買う、みたいなことをしていたんです。それがある日、COCONUTS DISK吉祥寺店のブログで、スカートの『エス・オー・エス』(2010年)がリリースされたときの記事を読んだんです。そのときに〈なんかひっかかるな〉と思って通販で買いました。だから僕の『エス・オー・エス』はバッチ付き。いまもそのバッチ、持ってます」
澤部渡(スカート)「わー、嬉しい!」
石塚「その頃、僕が聴いてた音楽って、コードのAからはじまってDに行ってAに戻ってきて、Eに行ってはAやDに戻るという、いわゆる12小節のブルース進行を使っていかにカッコイイかを競うみたいなものばっかりで、なんか閉塞感みたいなものも感じてたんです。そこに風穴を開けてくれたんが、スカートとココ吉(COCONUTS DISK吉祥寺店)のブログで。もともとココ吉は、ビフォアーズっていう東京のめちゃくちゃ素敵なビート・バンドのCDとかを扱ってたこともあり、2008年くらいから信頼を置いていて、ブログをチェックしてたんです。そこでスカートが紹介されてるのを見て、聴いて、〈うわー!〉ってなったんです」
――そのブログは当時僕も見ていました。“ハル”のMVがあがっていましたね。
石塚「なんで引っかかったのかは自分でもわからないんですよ。ほんまに謎でした。だって、僕はローリング・ストーンズになりたくて20歳くらいからバンドをやってた人でしたから。たぶん、スカートとは縁がないじゃないですか。でも、そのときにスカートを知って、さらにココナッツのブログ経由でミツメやシャムキャッツも知って、(そこには)すげえいい匂いがしたんです(笑)」
澤部「いい匂い(笑)」
――そのショックが、台風クラブの活動へと結びついたわけですか?
石塚「いまの編成になったのは、2014年の終わりに京都の鴨川でテントを建てて開催するイヴェントに誘ってもらって、そこに出演したときからですね。その直前にバンドから失踪してた山さん(山本啓太)と8年ぶりに再会したこともあり」
澤部「失踪ってびっくりしますけど(笑)」
石塚「20歳くらいの頃に山さんとやってたバンドでは、ローリング・ストーンズをめざしながら土日に駐車場のコンテナの中で練習してたんですよ。いま考えたらめちゃくちゃなシチュエーション(笑)。そんななか山さんは〈俺は映画の世界に行く!〉って言ってバンドをやめて、連絡も付かなくなった。8年ぶりに連絡もらったときに京都の六曜社で会って、それで〈またやろうか〉と。そもそも山さんはベーシストじゃなかったんですけど」
――ドラマーだったんですよね。でも、ドラムはもう伊奈(昌宏)さんがいたんで、ベースに。
石塚「そもそも失踪してる間、山さんはほとんど楽器にも触ってなかったんですけどね」
――『初期の台風クラブ』のインナーに掲載されたライヴ記録を見ると、いまの編成で初のライヴをしたのが、さっき言われた鴨川での年越しイヴェント〈大晦日唄小屋〉なんですよね。『エス・オー・エス』が出たのは2010年の12月で、そのライヴまでの4、5年間もスカートは作品を出し続けていましたけど、それらもぜんぶ聴いていたんですか?
石塚「そうですね。『ストーリー』(2011年)のセカンド・プレス以降のジャケットでは宙を飛んでる物の数が増えていると聞いたので〈どれやろう?〉と思ったりしてました(笑)。〈すげえやり方や、最高や〉って。澤部さんは僕からしたら魔法使い領域の人なんです」
――そもそも『エス・オー・エス』ってバンド作品というより、かなり宅録の要素が強い作品だったじゃないですか。
石塚「宅録にも憧れていて、SoundCloudにそういう曲をあげてた時期もありました。前に働いてた自転車屋さんでは、音楽をやっているバイトが多くて、そいつらと〈作曲家クラブ〉というのをやっていたんです。テーマに沿って1か月に1回、1曲ずつ作ってくるみたいな会で、そのときは宅録で作業して」
澤部「それは聴いてみたい!」
――実はそこで台風クラブで演奏されている曲の初期ヴァージョンも聴けるんですよね。
石塚「アカウントは残ってるんですよ。僕がログインできなくなってしまって消せずにいて」
台風クラブの音楽には〈これしかない!〉という気持ちになった
――澤部くんは台風クラブをいつどうやって知ったんですか?
澤部「僕もココ吉ですね。2015年の暮れにCDRの『ずる休み』が入荷したときに、バンド名もすごく良かったし、早速買ったんです。ただ、僕の悪いクセで、買ったのはいいけど寝かせちゃうんですよ。聴くタイミングを待ってしまうというか。そのあとに(タカダスマイルとの)スプリットの7インチで“ついのすみか”(2016年7月)が出たときも買って、そのタイミングではすぐに針を落としたんです。そうしたら、もう〈これしかない!〉みたいな気持ちになって、すぐに部屋のクーラーを切って窓を開けました(笑)。〈既視感はあるんだけど新しいな〉と思ったんです。〈一日のうちに何度も聴き返す〉という行為を久々にしました」
――まさにCOCONUTS DISKがつないだ縁!
石塚「『ずる休み』はライヴで手売りしていたんですけど、最初にお店に置いてもらうならココ吉だと思って、ダメモトで手紙を書いて一緒に送りました。そしたら店長の矢島さんから〈良かったです。置きます〉と返事が来て」
――しかも、その後、入荷即完売を繰り返すことになったわけだから、びっくりしたでしょ。
石塚「びっくりでした」
――何年も前から台風クラブとスカートが出会う種は撒かれていたという気がしますけど、いよいよ初対面を果たしたのは、去年の〈ボロフェスタ〉で、10月29日でしたね。
石塚「澤部さんは出番がめちゃ夜やったのに、その日のトップバッターの僕らを観に来てくれはって」
澤部「〈どうしても観たい!〉と思ったんです。だから、早い時間の新幹線で向かって、KBSホールの地下の蒸し暑いスペースで観ました。あのときのライヴが本当に良かった! 意外と音源は緻密で、ギターのフレーズとかも細かいんですけど、それをライヴで〈せーの〉でやっても、ダイナミクスが損なわれてなかったんですよ」
――石塚くんは、さっきも言っていた12小節のブルースを究めるような曲作りをしていた時代にも、実はひそかにサニーデイ・サービスやオリジナル・ラヴを聴いていたという話を、以前に取材したときに言っていましたよね。その影響も台風クラブの曲には表れています。
石塚「というか、〈そういうのを聴いてなかったら思いつきもせんなあ〉という話です。こっそり聴いては〈なんや、このすごいのは〉と思ってました。隠れてエロ本買う感覚に近かった(笑)」
――買っているところを人には見られたくない、というね(笑)。でも、そういった影響が、もともと好きだった村八分とか古いロックンロールと混ざり合っているのもすごい。
石塚「〈混ざり合ってる〉というか、そこはどうしても捨てきれへんとこなんですよ。単純に音だけで理想を求めるんだったら、そもそも僕がヴォーカルやないほうがいいし、ギターは2本で鍵盤もいたほうがいいんですけど、やっぱりロックンロールを捨てきれてなくて。というか、スカートが前に昆虫キッズとの対バンで京都METROでやったときのライヴ(2013年1月13日)が僕には衝撃だったんですよ。スカートは〈ロックンロール・バンドやったんや!〉って(笑)」
澤部「えー! それって鍵盤なしの3人でやったときですよね?」
石塚「あのとき、スカートは〈丸腰の3人〉みたいな感じで来てて。澤部さんの弦が途中で切れて、〈僕のギターケースのアウトポケットに入ってるから、だれか持ってきて〉みたいなことを言ってました。あの編成で、あのスタンスで、最強のポップス鳴らす、みたいな、そういうところにめちゃくちゃヨダレが出ちゃったんですよ」
澤部「懐かしー(笑)!」
――3人編成のスカートが台風クラブにいちばん影響を与えたかもしれないという説は言い得て妙ですね。
澤部「なんなんでしょうね。僕もバンドというものへの憧れはずっとあったと思うんですよ。それを宅録でこじらせて、ゆがんだ愛情がそのまま自分のバンド像になったんじゃないのかな」
映画「台風クラブ」を観たときのモヤモヤ感と自分の音楽は繋がっていた
――スカートは意外とバンド感があるし、台風クラブは意外と宅録感がある。そういう振れ幅のなかで両者がクロスしているというのがおもしろいですね。日本語詞へのこだわりという点では、どうですか?
澤部「僕は単純に、自分へのインプットが日本語だったからだと思っています。日本語のほうが圧倒的に自分のやりたいように扱えるから選んだという感じです」
石塚「こだわりというか、普通にラクにやれるのが日本語だというのはあります。高校の頃だと、対バンしてた同級生のバンドとかはメロコアで英語でオリジナルを作ったりしてて〈えー、すごい〉と思ってたけど、僕は英語わかれへんし。でも、そのバンドが日本語で歌ってた曲がめっちゃ良くて〈オリジナル作ったん?〉って聞いたら、ゴイステのカヴァーやって、〈ああいうメロディーに日本語が乗ったときの破壊力はヤバいな〉と思いました。そういうのもあって、僕がやるなら日本語で歌いたいことを歌い、それがバシッと音符に乗っかってて、カッコイイのがいちばんやなと」
――とは言いつつ、台風クラブの“ずる休み”は、サビに〈プレイン・フッキー、9-5〉っていうカタカナ英語のぶっこみ方が最高ですよね。
澤部「あそこ、すごくいいですよね」
石塚「〈ずる休み〉を英語でググったら、〈playing hooky〉って出てきたんですよ。最初は日本語にしてたんですけど〈これは英語のほうがぜったい良いわ〉と思ったからそうしました。〈日本語にこだわっているからカタカナはコカコーラとかガソリンまでしかダメ〉とか、そういうふうに固執してるのもダサいと思ってて。別に英語のほうがハマるんならワン・フレーズは英語とかでもぜんぜんいいし」
――台風クラブってバンド名の由来は、相米慎二監督の映画「台風クラブ」(85年)をテレビの深夜放送で偶然観たときの記憶が元にあると、以前に話したときに言っていましたよね。
石塚「これはある意味で失礼な話になっちゃうんですけど、相米監督にすごく思い入れがあったら、むしろバンド名にしてないと思うんです。自分の音楽と直接は関係ないけど、昔なんとなく観たときのモヤモヤ感とかは何か繋がりがあるなと思って付けたのが、この名前なんです」
澤部「あー、わかる。深夜になんとなく観てしまった映画を忘れられなくなるってありますよ。僕は(マーティン・)スコセッシの『アリスの恋』(74年)がそうです」
石塚「スカートがなんでスカートなのかも気になってます」
澤部「僕は、いわゆる女の子的なものへの憧れが強いんですけど、そういう方向に自分が近付いていけば済むという問題ではなく、そうすればするだけむしろ遠ざかると思っていた(笑)。なので、自分のなかの少女性とどう向き合っていくかを考えて名付けた、ということにしてます」
――〈すぐには理解できないけどなぜか心に残るモヤモヤ感〉や〈憧れているのに手が届かない〉とかって音楽を作るうえではかなり重要な動機だし、ある意味で背中合わせな感覚でもありますよね。そういう意味ではスカートと台風クラブはバンド名でも通じ合っていた感じが僕はします。2人は実はほぼ同世代ですしね。
澤部「そうそう、石塚さんは僕のひとつ上なんですよ」