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DJ KRUSHは本物だよ!

sauce81「マークとまったく同じ状況ではないけど、僕は幼少期にアメリカで育って、その経験は自分のアイデンティティーについて幼い頃から考えるきっかけになったんだけど、マークは、ふたつのバックグラウンドを持つことが自身の音楽や考え方にどういった影響をもたらしたと思いますか?」

マーク「ニュージーランドでは、少なくとも僕の周りに自分みたいな人は誰もいなかった。いまでこそ人種のるつぼと言われているけど、その頃はアジア人さえ珍しかったし、自分がどこに当てはまるのかわからなかったな。学年が上がるにつれて自然にポリネシアやマオリの子たちと仲良くなっていって、彼らとはヒップホップを通じて結束していった。そしてさっき言ったように15歳のときに音楽を作りはじめて、(彼らと)コラボレーションやプロデュースなどをするようになったんだ。

家では完全にふたつの文化が共存していた。父は流暢な日本語を話せたから家ではいつも日本語が溢れていたし、家には日本のアートワークや装飾品があって、母は日本食を作っていた。家での習慣はすべて日本人らしさが反映されていたよ」

sauce81「僕がコンピューターで音楽を作りはじめたのは 18~19歳の頃だったんだけど、その当時はインストのヒップホップとかエレクトロニカにハマっていました。そんな中でDJ KRUSHの大ファンになり、彼の音楽やインタヴューに衝撃を受けて、日本人として音楽を作ることについて考えさせられました。マークもKRUSHさんのファンだと言っていたけど、彼の音楽からはどのような刺激を受けましたか?」

マーク「DJ KRUSHは本物だよ! 彼の音楽に初めて触れたのは『記憶』(96年)だったと思うんだけど、ジャズとビートと日本の感性がブレンドされていて、すんなり僕の中に入ってきた。

2017年にハーヴィー・メイソンとブルーノート東京で演奏したとき、彼と共演できたことは幸運だったな。ハーヴィーがバンドのライヴにDJを入れたいって言ったとき、僕はすぐにKRUSHさんを提案したんだよ。僕たちは3夜で共に演奏したんだけど、本当に素晴らしいコラボレーションになったし、またいつかKRUSHさんと音楽がやりたい。

彼はターンテーブルに対してとても音楽的なアプローチをしていて、天性の即興演奏家なんだ。僕たちはそれに似たようなアイデアを持っているけど、演奏での出し方はまったく異なっていて。それによってこそ創造的なコラボレーションが生まれるのかもしれない」

sauce81「それから程なくして、僕はインストでやっていくことを決断するんだけど、それは他の言語を話さない人たちと〈平等〉になりたかったのと、自分のアイデンティティーを隠したかったからでした。いまでこそ英語で歌うし、日本語で歌うことにも興味があるけど、その頃は打ち込みに夢中で、さっき言ったようにインスト・ヒップホップ/エレクトロニカにハマってて、同時にディープ・ファンクやブロークンビーツ、ジャズなどのグルーヴにも心酔してたんだよね。4ヒーローやIG・カルチャー、バグズ・イン・ジ・アティックなどウエスト・ロンドンから生まれてくる音楽の流れでマークの音楽にも出会ったんだよね。

マークは以前、若い頃の夢はNYでストレート・アヘッドなジャズ・ミュージシャンになることで、当時60~70年代以降のジャズには前向きじゃなかったと言っていたけど、幅広い音楽に耳を傾けるようになったきっかけは? また、NYでなくロンドンに行ったのはなぜ?」

マーク「それほど白黒はっきりとターニング・ポイントがあったわけじゃないんだ。20代前半の頃の僕はミュージシャンとして、60年代のマイルスや(ジョン・)コルトレーンのカルテットが築いたレガシーから、80年代後半~90年代前半にマルサリス兄弟が先導したリヴァイヴァルとその流れがすべてだった。それ以前からネイティヴ・タンのようなサウンドやニュー・ジャック・スウィングに夢中だった。でも当時の僕は、これらの音楽すべてがアメリカの黒人音楽の系譜の中でどれほど密接に繋がっているかまだ気付いていなかったんだ。

ロンドンに行く何年か前、僕はニュージーランドでストレートなジャズをやっていて、しかもアコースティックなジャズ・アルバムを2枚出していたし、それは『Six Degrees』を着想するずっと前のことなんだ。同時に、ドラマー、ラッパー、DJ、パーカッショニスト、管楽器奏者でジャム・バンドのライヴもやっていて。ジャズのひねりを加えたフリー・フォームのヒップホップ・ファンクで、すごく楽しかったな。だから、ニューヨリカン・ソウルや4ヒーロー、特にジャングルのような音楽を聴いたとき、その音楽にどうやってフィットできるかを想像することができて、すぐに全部繋がったんだ。

でもそれがロンドンに行くきっかけではなくて。実はロンドンには(当時想いを寄せていた)女の子を追いかけて行ったんだよね。その子とは結局うまくいかなかったけど、そこで後にブロークンビーツを生み出すことになるクルーと知り合うんだ。彼らからは、僕がそれまでに大好きだった音楽すべてから影響を受けたような、でも存在を想像すらしたこともないような音楽を聴かせてもらったよ。

そんな音楽が形作られていく場にいたというだけでなく、その形成に貢献できたし、それが僕をミュージシャンとして、プロデューサーとして成長させてくれたんだ」

※マーク・ド・クライヴ・ロウの2000年のアルバムで、ジャズやフュージョン、ラテンなどをダウンテンポやドラムンベース、ハウスのフォーマットに落とし込んでいる