チャップリン映画になくてはならない作曲家チャップリンの存在
「担へ銃」の冒頭、行進の訓練をしている兵士たちの中で、チャップリンだけがいつまでたっても回れ右の動作が出来ません。さらには、この喜劇役者独特のあの〈がに股歩き〉は、上官からいくら直されてももとに戻ってしまう。このもどかしいくらいぶきっちょな身体が、チャップリン映画の基底になっている、と言ってもいいのでしょう。
チャップリンは、ハロルド・ロイド、バスター・キートンと並んで、サイレント映画の三大喜劇役者の一人と言われているけれど、他の二人がアクロバティックな場面で驚異の身体能力を見せるのとは対照的に、チャップリンの身体は日常的な所作においてさえ、思うように動いてはくれません。自分でも思いもかけないノイジーな動きに走る身体を、しかしチャップリンは持て余しているようには見えません。無駄で無軌道な身体の動きに、むしろ安んじているように見える。そんな彼が、戦場という状況のなかで、予測不能な動きを繰り出して味方も敵も攪乱し、最終的には味方に勝利をもたらす武勲まで上げてしまう。有意な動きの退屈さを笑い飛ばすような、不器用との戯れの解放感とでもいったものを、チャップリンの映画は届けてきます。
チャップリン映画が先述の他の二人のコメディアンの映画と異なるもう一つの点は、音楽です。〈はらはら〉や〈うっとり〉といった場面の気分を盛り上げるための伴奏音楽からは一線を画した、表現としての音楽を、チャップリンは自ら作曲しようとする。その好例が「キッド」にあります。
チャップリンは街で捨て子の赤ん坊を拾ってしまい、警官を始め何人かの通行人と関わる中で、その子を自分で引き取る羽目になります(登場人物を経済的に使い回す監督チャップリンの鮮やかな手際が見てとれます)。そんな彼が不承不承抱えた赤ん坊の懐から、〈この孤児をどうか愛し面倒を見てください〉と書かれた母親の手紙を発見し、初めて赤ん坊に笑いかける場面。音楽は悲痛なエレジーから一転、安らかな慈愛を歌い上げる旋律に変容します。ここで印象的なのは、そのエピソードに、一旦は赤ん坊を捨てた母親の行動が被さることです。後悔した母親が赤ん坊を捨てた場所に立ち戻り、なりふりかまわず赤ん坊の行方を聞いて回る。母親の良心が甦るそんな場面に、先の音楽の美しい推移が繰り返されるのです。映像と音楽との結びつきに重層的な奥行きを持った〈意味〉が、新たに生まれる瞬間がここにはあります。
デジタルリストアされた映像に生のオーケストラの音が重なる公演からは、映像と音楽との相関に対するチャップリンの創造的な試みを、様々な場面に発見する機会になることと思います。
LIVE INFORMATION
新日本フィルの生オケ・シネマ Vol.4 チャップリン『キッド』&『担へ銃』
○5/26(土)会場:すみだトリフォニーホール
昼公演13:00開演(12:15開場)
夜公演17:00開演(16:15開場)
出演:ティモシー・ブロック(指揮)
新日本フィルハーモニー交響楽団
オープニングチャップリンパフォーマンス:山本光洋