「ようやく納得のいくショパンが録れた」

 東京都立武蔵高校を卒業してパリに渡り、現在はベルリンを本拠に活動するピアニスト、福間洸太朗。最近ではアルゼンチンへもツアーに出かけるなど、ますますコスモポリタンの雰囲気を漂わせる一方で何故か、非常に古風で日本的な青年の横顔を強く保っている。ドビュッシーに続く日本コロムビアでの第2作、『バラードの音塊~ショパン作品集~』を聴くと、2003年の米クリ―ヴランド国際コンクール優勝の副賞でNAXOSに録音したデビュー盤のシューマンよりも一層、日本人のアイデンティティが色濃く出てきた気がする。

福間洸太朗 『バラードの音魂~ショパン作品集』 コロムビア(2013)

 現在31歳。夢中で走ってきた20代を振り返ると「恩師の1人、井桁和美先生の〈いい音楽だけをしていたら、次には人をつれてきてくれる。聴く人は自然に増えていく〉という言葉がだんだん、骨身にしみてきた」。もちろん「どう売り込もうか」と悩んだ時期もあったが、今は「根本には良い音楽のために学び、いかにパーソナリティある演奏を実現していくか」に集中する。

 洸太朗の〈洸〉は、水を表す〈さんずい〉と〈光〉を組み合わせた漢字。前作のドビュッシーは〈水と光〉に徹底してこだわった選曲だった。「ドビュッシー自身に日本的美意識への共感があった」のに対し、ショパンはパリの街が持つ歴史や伝統に深く傾倒していたので「自分の演奏でもドビュッシーとは異なる面を出したかった」。ピアノによる純粋音楽を目指したショパンにとって、〈バラード〉は「かなり深刻な内容を物語るドラマ性を備え、人間の奥に潜む感情を爆発させた特異な作品」と、福間は解釈。「西洋人の弾き方をまねるのではなく、自分の視点でショパンの意図に一歩でも近付こうと努めた」という。

 実は2010年に1度、〈バラード〉を中心に据えた曲目に取り組み、最終的にはレコーディングを考えていた。どうにも最後の一歩が踏み出せず、CD化も遠ざかりつつあった時に東日本大震災(2011年3月11日)が起きた。遠くヨーロッパで被害の状況を視て、とりあえずチャリティー・コンサートを開き、義援金を日本に送ったが、「実際は何がどうなっているのか、わからないことだらけ」だった。音楽に携わる者として「人類共同体の中で、どう生きるか」を自問自答するうち、「聴いてくださる方にポジティブなエネルギー、希望を少しでも与えるのがピアニストの使命」と思い至った。被災地の人々を念頭に置き、「同時期のノクターンハ単調とバラード第4番の悲劇の後、平和の祈りを込めてノクターンヘ長調を弾き、誰もが知る“別れの曲”で終える」とのコンセプトが固まった時、一気にCDは完成した。