『FANTASY CLUB』(2017年)での、リリックの深化とヴォーカリストとしての〈歌〉の再発見。この2つの要素が『RUN』(2018年)を経て、ある種の軽み、解放感とともに、より〈オトナ〉の風格を感じさせる境地に至った近年のtofubeats。ハウス・ミュージックに絞った初の作品という、ともすればマニアックで密室的な内容になりそうな所を、風通しの良い小品としてまとめ上げている……というのが本作を一聴しての感想です。

“MOVE YOUR FEET / AS YOUR LIKE”“MOVE IT”の、声ネタ素材を自分で歌って録る、というのはムーディーマンやグリーン・ヴェルヴェット、近年ではチャンネル・トレス(Channel Tres)、イエジ(Yaeji)やパク・ヘジン(Park Hye Jin)にも共通するスタイル。

メジャー名義では今までで最もハード?な“HOT TOUCH”、ブレイクビーツ~アシッド~レイヴの折衷的バランスがジョーイ・G・ii(Joey G ii)や〈Mood Hut〉のローカル・アーティスト(Local Artist)などロウ・ハウスの新鋭らとも共鳴する“SOMEBODY TORE MY P”など、いずれもダンス・ミュージックのプロデューサーとしての手腕がギミックなく、ストレートに発揮されております。

そして、リリース後意図せずして、歌詞の内容が新型コロナウイルスの影響に揺れる日本社会に言及している……としか思えない作品となった(なってしまった)“陰謀論”と“クラブ”の2曲ですが、リリース後に公開された“クラブ”のミュージック・ビデオでその辺りの状況をサラリと回収してみせてるのもまた、オトナじゃないでしょうか?

しかしこういう、作品が意図せずして社会的意味を急激に帯びてしまう状態を目の当たりにすると、アーティストは作品をどこまでコントロールできるのか(するべきなのか)? アーティスト(の言動や思想)と作品は別物なのか?と言った議論は、そもそもすごく限定的なものの見方ではないか、という疑念がフツフツと沸きますね。

作品がアーティストの手を離れ、意図せぬ作用を生む例は良かれ悪しかれ様々でしょうが、ラリー・ハード(ミスター・フィンガーズ)によるハウス・クラシック“Can You Feel It”(86年)とキング牧師の〈私には夢がある〉演説とのマッシュアップ・ヴァージョンがラジオ局のDJらによって自然発生的に生み出されたような良き例を、まだまだ信じたいものであります。ハウスは愛と連帯の音楽だと思いますので……愛とか連帯とか、照れずに堂々と言えるオトナになりましょう!!! 俺は切に、そうなりたいよ。ご結婚おめでとうございます。