〈第33回東京国際映画祭〉が2020年10月31日(土)~11月9日(月)に開催されます。会場は、六本木ヒルズ、東京ミッドタウン日比谷ほか。
新型コロナウイルスの影響で、今年は賞を競うコンペティションを取りやめ、コンペ3部門を統合した〈TOKYOプレミア2020〉部門を設置。国内、アジア、欧州などの新作32本を上映し、全作品の中から観客が投票で〈観客賞〉を決定します。
また、開幕日の恒例であるレッド・カーペットもなく、代わりにオンラインによる新たな試みを企画するなど、いつもとは違った映画祭となりそうです。
開催目前に迫るいま、たくさんの貴重な上映作品の中から、11月7日(土)に上映されるジャンフランコ・ロージ監督のドキュメンタリー映画「ノットゥルノ/夜」(海外映画祭の受賞作などを集めた〈ワールド・フォーカス〉部門より)の、テディ・ジェファーソン(Teddy Jefferson)による作品批評を紹介します。 *intoxicate編集部
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歴史を知らない者が歴史を繰り返してしまうと私たちは教えられるが、人の行いはその反対も真であることを示す。知っていることを我々は実行する。歴史を知るということは、何が歴史を繰り返させたのかということ。この歴史の教訓は、繰り返される残虐行為、あるいはISISの中で目覚める人生についてのドキュメンタリーにとってどんな意味があるのだろう? 芸術作品は繰り返される出来事の予防接種足りうるのだろうか? 免罪は価値あるゴール足り得るだろうか? つまり他人に起こったことに何らかの行動を起こしたという幻想を持ってして聴衆の罪悪感を和らげるのだろうか。ISISは、類のない挑戦を挑んでくる。高度なデジタル技術の最新のものを使い、米国のイラク侵攻が生み出した真空地帯に、文字以前の全体主義/原理主義の社会を築こうとしている。野蛮を伏せるどころか、ISISは新兵が彼らの大義を理解できるように、虐殺や、斬首の動画でYouTubeを溢れさせた。
ISISの登場を、世界の慢性的機能不全の一つとして異常な出来事だとするのは誤りだが、彼らが異端者とみなしたものの根絶を正当化するスケープゴートの政治、そして批判的な思考に歯止めをかけ、代替の真実を播くそのソーシャル・メディアの使用は、米国を含む世界でますます見られる慣行である。
ポスト啓蒙主義の社会は、7世紀の神権政治への回帰の意思に抗する思想の戦争に簡単に勝利するだろうと望んでいた。しかし我々が生きているのは、トランプをはじめとする世界の指導者の多くが、反ユダヤ主義についてのエッセイにサルトルが書いたことを成し遂げてしまった時代なのだ。彼ら指導者たちの議論が荒唐無稽だという事実に惑わされてはいけない。サルトルは書く、彼らの目的は理性による説得ではない、対話を完全に行き詰らせることなのだと。いったん彼らが勝利すれば、理性そのものがあらゆる力を失う。
こんな状況の中で、ドキュメンタリーはどうすれば効果的なのか? どんな言語を用いることができるのか?
理性の腐敗、共感能力の衰えに加えて、あなたが手にするのはこの監督が持っていた「ノットゥルノ」を織る針だ。人間社会に残虐行為を阻止する能力が欠けているにしても、この社会は、残虐行為を制圧しようとする気持ちに簡単に水をさす。
ジャンフランコ・ロージがこの映画で採った戦略は、かくして、リアリズムの反映である。彼は映画形式の伝統的モード、言葉や映像で恐怖や不平等を描くことは、もはや効果的ではないと認識していた。描写の倫理は爆破されたのだ。磁石に近づきすぎたコンパスのように、理性の極性は撃たれた。
そして、このようにISISによる統治の地獄の後遺症にどっぷり浸かった「ノットゥルノ」には、ISISへの痛烈な批判の一つも、彼らの支配の分析も、残虐行為のクリップもない。
「ノットゥルノ」は、暴力の映像が一つもない、軍による征服と弾圧の効果についてのドキュメンタリーである。最も暴力的と言えるのは、女性兵士が、夜、携帯電話で見ている戦いや、心を病んだ患者たちを鼓舞しようと彼らの祖国の歴史の様を見せる映像だ。それどころか、ドキュメントの主題であるISIS統治下での経験に関する直接的なコメントが一つもない。これ故に――むしろそのために――それはあの現実を描くのにとても効果的なのだ。
W・G・ゼーバルトは、彼の第二次大戦以降のドイツの状態についての研究「破壊の自然史について」(未邦訳)の中で、以下のような表現を用いる。「理解可能な言葉使いで表現することができない世界」、「大衆が解読(不)可能な経験」、「回顧的理解の抹消」。ある世代全体に及んだ、彼らの生活を支配した状態には何の言及もなされなかったのだ。
今日の私たちにはより関係が深い、1918年のスペイン風邪の流行の生存者は、100歳に近づいた時、そのトラウマがあまりにも過酷だったので流行が終わってしまうと、誰もそのことについて語ろうとはしなかったと述べた。その当時、少女だった彼女はこのことが不思議だった。大人にしてみれば、しかしながら、そのことを考えるのはあまりにも痛ましく、不可解だったのだ。
ISIS統治からの生還者たちは、彼らが切り抜けた惨事から受けた精神的なショックによって沈黙してしまっていたのかもしれない。しかしもし監督が真実を捉えたいと思っていたのなら、これがその真実だったのだ。かくしてロージのアプローチは、彼の取材対象者たちの条件と、彼の西側の聴衆を条件づけること両方への返答だった。「ノットゥルノ」に登場する人物がISIS下での生活の恐怖を描写していたなら、彼らの言葉は西側の聴衆の関心を全く得られなかっただろう。というのも西側の聴衆というのは、メッセージの病(fatigue)によって感情移入の病がさらに悪化しているのに加え、真実自体も信用できないのである。また別のアプローチが必要だった。
二つのシーンが、事態の緊急性とそれを一体どのように見せるのかとの間で、監督のアプローチに現れた緊張を描く。
子供が、吊るされて斬首された死体を描いた彼の絵の脇に立つ。彼はアート・セラピストに描いた物を説明している。たどたどしく、つっかえながら、目の前で起きた殺戮と拷問を説明している時、彼のトラウマが、極度な吃りとなって現れる。
もう一つは、この地域の現況を唯一ダイレクトに紹介するシーンだ。二人のクルド人が直近のキルクークでの攻撃について議論している。「もし、ISISが完全にやっつけられなかったら」と一人が述べる。「状況は2014年に戻るだろう」。
この二つのシーンの間――少年と彼の絵、そして戦争を語る兵士たち――に、「ノットゥルノ」が糸を通す。彼が描いた残虐行為について語りながら、これは起こったことと少年は言う。これはまた起こりうると、兵士たちは言う。あるいはもうすでに起きているのだ。
映画には、隠された警告にむけた二つ方針の柱がある。新たな、ゴロつき政権にその標的とされたマイノリティーを虐殺させない。そしてISISが実践するスケープゴートの政治が、多くの世界の指導者たちの実践するスケープゴートの政治とは全く異なるなどと想像しない。
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イタリア語で、ノクターナルとノクターンの両方の音楽形式を意味するタイトルが、まず最初に監督のアプローチを示す。彼が照準を合わすのは、何もおこらない時間、あるいは時間の間、隙間、見えないものではなくて見過ごされているもの、舞台裏、アウトテイクだ。これは注目すべきことだし、おそらく今日の西側のような、〈テイクアウト〉や〈ニュース速報〉に釘付けで、詳細な研究ができないほど謀殺されて、何が重要かについての要約や説明書が必要な文化にはショックでさえある。「ノットゥルノ」は、知る前に見るプロセスの記録である。それは過激なほどに異質な世界との邂逅、それが引き寄せられて、その内側から記録するある意識と感性のプロセスである。ショットが含んでいるもの、それが意味するものを知ることができるのは、後でショットを初めて見た時だけだという監督の疑念を暗示する間(ま)と忍耐がショットにはある。その結果が、親密さと距離感の不自然な均衡なのだ。監督の衝動が、受容の可能性を最大限に引き上げる。かくして、シーンがさらに展開し、映像の奇妙な重力、極度の解像度、あるいは視覚域の深さの感覚が発生するシーンの様々な効果。
観衆の心は満たされて、信頼が増す。観衆は語られるのでも、導かれるのでもない。それぞれの場面は、無傷で、完全で、干渉のない、音楽やコメント、あるいは暗示もないまま聴衆の前に置かれる。ゴールは、変容でも、驚きでも、愚弄や感動でもない。ゴールは、見せることであって感じさせることではない。同様に見ることが感じることよりも優先されなければならない。
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初めて「ノットゥルノ」を鑑賞すると、この映画が異なるモードの映画だという感覚が生じる。この印象は二度見るとさらに深まる。プレゼンテーションのモードと精神への効果が異なるのだ。どんなふうに?
開始のシーン。どこにでもあるような風景の夜明け、あるいはもしかすると夕暮れ。隊列になって走る兵士の一団が、我々の後ろから現れる。階級、所属も国籍も不明、軍人の服装をした3、40人の男たちだ。彼らは走り過ぎて、フレームから消える。少し経つと別の集団がフレームに現れて去っていく。我々は考える、その度にこれが最後だと。しかし、しばらくするとまた別の集団が近づいてくる。とうとう、フレームは空っぽで、静かになる。私たちは、二つのことを観ていた。訓練中の軍隊とその地域の歴史である。一つ戦争が終わったと思ったら、私たちは次に備えている。軍隊の後に軍隊、の後にまた軍隊。事実、この短いシークェンスは、次の隊列を予期するようにすでに私たちを条件づけ、隊列の音は聞こえていないのに、聞こえていると考えている。
次のシーンは反対方向に動く。私たちに向かってくるのは、年齢不詳の、コンクリートの要塞のように、白く頭を覆う、黒いドレスの女性たちの集団だ。老いた、重々しいが、慎重な動きで、画面の四方八方に散っていく。彼らの表情は険しく、緊張しているが、そこには理解し難い感情が混じっている。女性たちは、「復讐の女神」といった古代ギリシア劇、あるいは「女の平和」「トロイアの女」から飛び出てきたかのように登場する。ある女性が彼女の息子がここで拷問されて殺されたと嘆き悲しみ、女性たちは泣き、目を擦る。その女性は壁の中に彼の息子の気配を感じると言い、壁を背にして立って、鳥のように、あるいはカマキリが羽の表面を挽くように、両腕を伸ばして、開き閉じている。すると彼女は動きを止める。彼女は息子をもう感じてはいない。
兵士が去り、母親たちが入ってくる。同じ機械のパーツのように、男たちは回って画面の左へ消えて、女たちは右から入って交代する。踊りの振り付けのようにこれ以上ないほどに精確だ。シークェンスの論理もそうだ。男たちは戦って死ぬ。女たちは産み、悲しむ。地図、名前、軍服がなんであれ、これが本質であり、これからもずっとそうのだ。映画は何も前提とせず、何の説明もなく、何も強制しない。
過去3年の間に撮影されたのに、シークェンスに同時代のリアリズムを感じない。二番目のシーンは、モダニストの踊り、あるいは実験劇場のようだ。それは例え話、あるいは作り話、あるいは儀式的でさえあるのだが、この三つに全く該当しない。こうしたモードはあまりにも抽象的だ。登場する人々はシンボルでもない、代役でもないし、登場人物でもない。むしろ元型の、元素の、永劫の具体性が彼らには宿る。もっと簡単に言えば、彼らは彼ら自身なのだ。
この些細な変化によって、こうしたシーンの効果がどのくらい違ってくるのか、よく考えてもみたまえ。もしロージが、日付や撮影場所の名前をそれぞれシーンの前に挿入するドキュメンタリーや話題の映画に共通の慣習、例えば、2018年イラク—シリア国境、あるいはアル・ワアディ刑務所、イラク(でっち上げられた)のようなこうした慣習に従っていたとしたら。捉え方のモードは全く違っていただろう。観衆は、まず与えられた情報にそれぞれのシーンを合わせようとするだろう。観衆が物語を組み立て始めると、彼らは見るよりも想像し、もっと投影するようになる。文字通り、映像は二次的になり、映画が押し進める、ある仮定を支えるようになる。「ノットゥルノ」では、その代わりに観衆に示されるのは、映画の撮影場所(イラク、クルディスタン、シリアとレバノン国境沿い)とこの地域のISISに行き着く歴史についての15文字程度の描写、冒頭画面の2、3行だ。それ以上はない。ある程度までは、ロージは、完全に異質で不明瞭なある現実へと踏み込んでいくという彼自身の経験を観衆の中に再現する。この戦略は、最後まで続けられて、これがドキュメンタリーであるのであれば、彼の目的は何のかという問を提起する。映画の形式や美学的革新がいかなる政治的関連性よりも重要なのかどうかを問うことには意味がある。
情報のコントロールは、この戦略の核心である。映画制作の別分野からの参照ではあるが、ミステリーとサスペンスの本質的差異である情報の役割についてのヒッチコックの着眼点とのある有効な並行関係がある。
「映画の登場人物よりも観衆の方が知らないとき、ミステリーなのだ。その逆の場合が、サスペンスなのだ」。後者の構造は、悲劇の反語法にも当てはまる。ソフォクレスの「オイディプス王」は、例えば、王の都市に広がる疫病の原因、つまり王なのだが、その原因を突き止めようと躍起になる王を観客は見ながら、そのことを知っているのだ。
サスペンスでは、観衆は彼がこれから見ることになる何かが語られる。例えば、登場人物の座っているテーブルの下で、5分後に爆弾が爆発するとか。このことを知っているから、オイエディプスと同様に聴衆は注視し、登場人物に極度に移入する。これ故にヒッチコックは、サスペンスは根本的に感情的な形式だとしている。対称的に、ミステリーにおいては、順序が逆になる。例えば殺人事件では、原因を見つけ出そうとする過程、つまり誰が殺人者であるのか、その過程を辿る。よって、ミステリーはヒッチコックが言うには、知的な、それゆえに彼にとっては、二流の形式なのだ。
この対比はゆがんでいる。一方、「ノットゥルノ」では、情報は戦略的に巧妙に用いられるというより、戦略的に差し控えられる。監督は予めあなたの反応を、知っているわけでも、説明しようとしているわけでも、導こうと考えているわけではない。けれども、監督がヒッチコックと共有するのは、フォーカスの強度であり、もし曖昧なものがあればそれぞれのフレームに何か重要なことが含まれていると観衆に伝わる強烈な凝視である。ロージの映画の何が素晴らしいのかと言えば、この視覚の強度と平凡な物語や理論の欠落が同居していることだ。
「ノットゥルノ」では、前述した3行の歴史を除く全ての情報は差し控えられる。明らかに、いくつかの情報開示のプロセスが進行中だが、主題だけでなく、映画が生成しようとしていることを知っているというモードですら、明らかにはされない。歴史的事実についての、どんな事実についても、導入も議論も全くない。この人々が誰なのか、我々に持ち込まれたのは誰の生活なのかについても明確ではない。貧弱な導入情報は、それに続いて何かが芽吹く種子ではない。どちらかと言えば、それに続くものは、そのような情報の関連性に異議を唱えるのに役立つのは、つまりピリオドだ。もっと明確には、映画が成し遂げていることは、生活の事実を、平凡は説明や、その事実を知ることから切り離すこと。
私たちに提示されているのは、単なる生活だ。人々について語られていることをもとに彼らに対する私たちの視線の、イラン人かシリア人、シーア派かスンニ派か、クルド人かアラブ人か、ちょっとした再調整が厳格に回避される。ヒッチコックがサスペンスのレベルで了解する前提条件の効果が何なのか想像するのは容易いだろう。上述のシーア派かスンニ派などなどの、どのようなレッテルの導入であっても、どのシーンの前でも、あるいは登場人物で交わされる対話の中でも、観衆の、映画とその登場人物との関係を即座に変えてしまうだろう。その導入は違いを見分け、偏見を学習し育てること、そしてレッテルが実際に行動や出来事の根底に潜んでいることを容認するある傾向を作り出す。レッテルが、暴力を正当化し、あるいは誘発するために、誘導されて改竄されるのと同じやり方で。名前や境界を取り除いて、暴力の原動力を失速させる。
それはそんなに簡単なことだろうか。その地域のほとんどの研究にまさに流布していると考えられる、このようないかなる格付けや操作を消去することに、ロージは異なる効果を求めているようだ。いかなる結論、あるいは理論へ到達しようとしない。ゴールは、剥き出しで変調されない、中立不偏の凝視、ある見方を作り出すことのようだ。あたかも監督は、世界のこの場所では、あるいはもしかするとどこでも、事実を知れば知るほど、理解できなくなると結論してしまったかのようだ。
ではなぜドキュメンタリーを作るのか? そんなにせっせと全ての技術、慣習と望ましいドキュメンタリーの結果を回避してまで。ロージは観衆の心に何を起こしたいと望んでいるのか? 彼にはその目的がいくつかあるに違いない。さもなければ、彼はテーマとして世界のこの場所を選ばなかっただろう。しかし映画のテーマが、ISIS支配下での人々へのISISの影響だと仮定しても、彼は何をやろうとしているのだろう?