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観客の身体と同期するバンドの〈意思〉

しかしながら、ライブが進むにつれ、いわく言い難い熱が体にこもってくるのも感じる。とくにこの日の“朝”の演奏では、今までにない感覚に襲われた。生バンドのライブ体験についてよく言われるように、〈ビートに揺られる〉のではなく、ビートそのものが身体を侵食し、生体が〈ビートと同期する〉ような感覚。この体験をダンス・ミュージック的、あるいはテクノ・ミュージック的といえばそうなのかもしれないが、しかし、この日のオウガの演奏には、やすやすとジャンル用語に収束しない特異性があった。

そこでふとよぎったのは、もしかするとこの特異性というのは、演奏するバンド自身も〈理解〉していない事柄なのではないか、ということだ。彼等はよく、作品や個別楽曲の内容について訊かれ、〈特に意図はない〉と言う。たしかにここには、なにがしかの〈理解〉に結びつくのを前提とした〈意図〉がない……というか、はじめからそれを超えようとするような、(〈意図〉ではなく)〈意思〉の偏在を感じるのだ。彼等は、観客を含めてなにかをせきたてようともしていないし、また、なにかにせきたてられて演奏しているようにも見えない。ただ、たまたまこの空間の一部分を占める肉体として、自らが作り出しているはずのビートや旋律と対峙するように音を続けていく。ただ1秒前に奏でられた音があるがゆえに、1秒後にも同じように音を積み重ねる。

そこでは安直な〈意図〉が付け入る隙はない。楽音が〈理解〉に逢着することを逃れるように、音楽自体が要請する〈意思〉のようなものと同期していく。幸い、我々もまた〈意図〉でなく、こうした〈意思〉となら、言葉を介さずに同期する=快楽的な関係を結ぶことができる。しかも、極めてスムーズに、だ。こうした思いは、“フラッグ”以下、この日のライブを貫通するものだった(ゆえに、長年彼等のライブ演奏の音響オペレーションを担当する佐々木幸生と中村宗一郎が提供する演出も非常に重要なのだと再認識した)。

 

〈社会的〉な歌、今ここの外側へ誘う歌

また、この地点に至って、その魅力をより鮮やかに提示してくるものがある。それは、出戸学のヴォーカル、もっと一般化していうならメロディーの存在だ。オウガのライブ演奏では、反復的な構造との関係にあって、歌はなにがしかの〈道筋〉をつけるもの として機能する。反復する放縦な音の間を滑るようにさまよいながら、メロディーがたしかに物語を標していくのだ。

その歌詞が度々〈社会的〉であると指摘されるように、OGRE YOU ASSHOLEの音楽にあって、出戸の歌声は、恍惚とした反復の中で見失ってしまうかもしれない〈社会性〉を、辛うじてつなぎとめるロープの役割を担っているように感じる。

だが、それを単に保守的な社会性=放縦や恍惚への反動的な恐れであると理解してはならない。あくまでここには美しい逆説がある。出戸の歌が切なげに響くほど、一方で我々は今ここを超えた外側への憧憬と欲望を焚き付けられるのだ。“記憶に残らない”や“夜の船”など、バンドのメロウ・サイドを代表する名曲が演奏されるときにも、我々は、うっとりと今ここではないどこか/なにかに接続される。