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インタビュー

映画「サマー・オブ・ソウル」監督クエストラブが語る、黒人文化の祝典を捉えた最強のドキュメンタリー

©2021 20th Century Studios. All rights reserved.

アミール・“クエストラブ”・トンプソン監督
「これは日の目をみるべき映像だ。当時の黒人社会を巡る状況が分かる。政府や警察が市民をどう扱ったか、目の当たりにできる。そして発言する黒人の姿を」

 ウッドストックと同じ69年の夏、160キロ離れた場所で、もう一つの歴史的フェスティバルが開催されていた。ニューヨークのハーレムにあるマウント・モリス・パークで30万人以上が参加したこの夏のコンサート・シリーズの名は、〈ハーレム・カルチュラル・フェスティバル〉。このイヴェントの模様は撮影されていたが、映像素材はその後約50年も地下室に埋もれたままになっていた。誰の目にも留まることなく――今日この日まで……

 才気に満ち溢れた若きスティーヴィー・ワンダー、フェスの1年前に⾮業の死を遂げたキング牧師に捧げる、ゴスペルの⼥王マヘリア・ジャクソンとメイヴィス・ステイプルズの、会場を異次元に導く歴史的熱唱、ウッドストックでもベスト・アクトの⼀つと称された当時⼈気絶頂のスライ&ザ・ファミリー・ストーンの圧巻のパフォーマンス、そして後世に語り継がれ、聴くものの⼈⽣を変えたニーナ・シモンのメッセージ……それは先駆者たちの演奏に加え、影響力のあった黒人アーティストたちが共に繰り広げる壮大でスリル満点の音楽による黒人文化の祝典だったのだ。この2021年夏、封印を解かれた、今年最も⼼躍り、感動的かつ重要な、時空を超えた最強のドキュメンタリー映画が公開される。

 監督デビューを果たし、トンプソンの映画は、本年度サンダンス映画祭において審査員⼤賞と観客賞を受賞した。本作は、啓示的で途方もない音楽で溢れ、素晴らしいインタヴューには、社会的、政治的、文化的、そして表現方法においても当時あらゆることが変動期を迎えていた黒人史上非常に重要な契機についての知見が盛り込まれている。


 

──この映画とあなたの旅はどのように始まったのですか?

「二人のプロデューサー、ロバート・フィヴォレントとデイヴィッド・ダイナースタインとのミーティングから旅は始まりました。このフェスのことは聞いたことがなかったので、『僕がスティーヴィー・ワンダーやスライ&ザ・ファミリー・ストーンが出演した69年に開催されたフェスについての映画を監督するって?』。私は取り合いませんでした。というのもそれが実際に存在するなんて思っていなかったから。そこで彼らはフェスの映像を見せてくれて、それが事実だと分かったのです。そして『私たちは君に監督して欲しい』と彼らが言ったとき、いくらかの自信は戦慄へと変化したのです。人生最大のチャレンジの一つになると分かっていましたが『オーケー、どうやらこれを物語ることは私の宿命なんだね』と答えました。やって本当によかった」

──まったく信じられませんね。今に至るまで、このハーレム・カルチュラル・フェスティバルのことを聞いたことがなかったなんて。

「思うに、重要かつ答えに窮する質問は、黒人の物語や歴史を抑圧し、処分してしまうことがこんなに簡単なのは何故なのかということでしょう。結局のところ、当時の権力者にとっての最優先事項、そしてそもそもこのフェスが開催された理由は、68年と69年当時に起きたことを考えれば、彼らがこれ以上の暴動や諍いに巻き込まれないように黒人を宥めすかし、忙しくしておくことでした。68年のマーティン・ルーサー・キングの暗殺以降、デトロイトからフィラデルフィア、そしてアトランタに至る多くの都市部では、怒りが爆発していました。だからニューヨーク市は、何か前向きになれるようなこととして、また市民を忙しくしておくためにこのフェスの開催を容認しました」

──このフェスの背景にあるストーリーを少し説明してください。

「フェスをオーガナイズしたのは、夢想家で意欲的な実業家であるプロモーターのトニー・ローレンスでした。彼の夢は初の黒人音楽祭を開き、それを映画としてドキュメントすることだったんです。彼は資金を調達し、スポンサーを決めて、ハル・トゥルチンをパートナー兼プロデューサーとして選びました。それにあのレベルの才能に出演を承諾させたのは驚きでしたね。彼はこうしたんですよ。たとえばデイヴィッド・ラフィン(直近にテンプテーションズを脱退)のところへ行ってこう言うんです。『スティーヴィー・ワンダーはやるってさ』。デイヴィッドはこう返します。『スティーヴィーが出るんだ? じゃあ、やるよ』。その後でスティーヴィーにこう伝える。『デイヴィッドはこれに出るってさ』。そしてスティーヴィーは『デイヴィッドが出るんだ? じゃあ出させてよ』。彼らは奇跡が起きたと分かっていました。問題は世界中を納得させることでした。ですがもう一つのフェスであるウッドストックが夏の終わりにむけて開催されようとしていたこともあり、解決するには至りませんでした」

──もちろんウッドストックは忘れがたく、音楽史上不動の存在です。それにひきかえ、ハーレム・カルチュラル・フェスティバルは忘れられ、埋もれていました。

「ウッドストックが舞い降りて栄光をつかむと、それが人々が興味をもった唯一の音楽イヴェントになりました。一時期トニー・ローレンスはハーレムのフェスティバルを、〈ブラック・ウッドストック〉として売り出したかったのですが、それでも人々に印象を与えることはできなかった。しかしそんなことは黒人の歴史ではよくあることです。『そんなに面白くない』とか『大衆には届かない』と言われたんです。だから結局、フェスのたった三十分間だけが、州北部にある独立局の放送番組枠のチャンネルで午前の1時に放送されました。それがそのすべてだったし、収録された映像は50年間地下室に置かれたままでした」

──時代の流れとこのフェスが何故重要なのかについて説明願います。

「理解しておかねばならないのは、一般的に、69年はおそらく黒人にとってもっとも重要な年だということです。歴史的にみると、それ以前に起こっていたこと、つまり奴隷制から、再建の時代、ジム・クロウ(アメリカ合衆国南部において人種隔離を命じたジム・クロウ法)、そして公民権運動にいたるそのすべてが圧倒的な恐怖感と苦痛を黒人に与えてきました。そして69年になると、公民権運動を始めた世代に比べると若く、積極的な人々の集団が現れました。黒人の子供たちは『我々は私たちの権利をただちに要求する』と発言しました。ある種の葛藤がありました。『ただちに要求するのか、下品にそして無謀なやりかたで。それとも礼儀正しく、つつましく求め、それが叶うのを辛抱強く待つのか?』という問いかけをめぐる葛藤でした。その葛藤が文化としての我々の居場所でしたし、それが音楽やメッセージにも反映されました。ステイプル・シンガーズは(映画に登場する)、ストレートなゴスペル・ミュージックから、われわれがプロテスト・ミュージックと呼ぶ音楽までを演奏したんです」

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