After the Last Solo
ヴィジェイ・アイヤーというジャズピアニストが新譜を出すたびに、聴かねばという衝動を抑えられず手を出して、デスクトップのホルダーに集めたままになっている彼の書いた膨大な論文、エッセイや宣言文を眺めては、その難易度に頭を抱えることになる。今回、数年前に『Uneasy』というアルバムでデビューを果たしたピアノトリオの二枚目『Compassion』がECMからリリースされて、未読の大量のテキストを眺めながら新譜を聴き始めた。前作同様、マーカス・ギルモアたちとのトリオの頃とは随分異なる空気感が漂うサウンドに包まれる。何が違うのか? おそらく前者はトリオが構成するアンサンブル指向が強く、後者は三者の奏でるコレクティヴな音楽という、矛盾するようだが、どこか集約されない、並行する三つのアイデアが、互いに侵蝕し合って発展するサウンドを指向しているように感じる。以前、「直観的な空間のようなものと関わること、表面下の何か、活性化し、促進しようとする何かを見出すこと」(『Uneasy』のプレスリリース)を、このトリオでの演奏に必要なこととして本人は語っていた。
「器楽曲は何かを〈表している〉かもしれないと言うことが意味するのはどういう事か、彼の考えを共有しょうと、ワダダ・レオ・スミスに質問した。彼は答えて、鍵となるのは、インスピレーションだ。インスピレーションとは、明かされようとしている知識の到来であり、教師や、仲介する状態を必要とはしない。作曲家ー演奏家であるクリエイティヴな音楽家は、こうして瞬時に降りてくるインスピレーションを表現する機会に恵まれる。それは純粋なのだ。……を通じて、そのまま降りてくる。インスピレーションを介して、芸術作品は真正であること、その存在感やその意味を獲得すると信じる。インスピレーションは生きながらえる。我々が生きていくように。誰かが記憶している限り」。レオ・スミスの言葉を引きながら、『Compassion』=慈悲という、どこか救いを求めるようなタイトルの、新譜のライナーをヴィジェイは書き起こす。
言葉を封じた音楽は、物語の外に置かれてきたのか? ヴィジェイは「音楽は常に、私たちの周囲にある世界のこと、世界によって活性化され、その世界に表現を与える。つまり人々、関係性、環境、啓示のことだというのがスミスの考えだ」と解釈する。つまり、音楽はそれ自体が世界であり、物語として現れる。2004年に発表されたエッセイ「ジャズの即興における物語を爆破すること」では、アフリカ系アメリカ音楽における身体化の軌跡について議論し、どのように音楽的な身体が物語を語りかけるのか、そこから学べることが何かについて、彼は示そうとする。「インプロヴァイザーが語るストーリーは〈一貫性のある〉ソロ全体の形式の中や、単純にメロディが交換される構造によって展開していくだけではなく、顕微鏡を覗くような音楽の細部や、演奏それ自体に内在する構造においても展開している。ストーリーはソロごとだけでなく、たった一つの音や即興演奏の人生すべてにも宿る。手短に説明すると、ストーリーは単純な線的な物語としてだけではなく、壊乱され、爆破された物語としても顕示される」と書く。そもそもヴィジェイは、即興演奏を単純に音の起承転結で構成されるようなストーリー・ライン、つまり一貫性だけで説明しようとしたガンサー・シュラー達の、アフリカに根に持つ語りでもあるジャズの即興演奏の複雑な空間に発生する物語への介入に違和感を感じて筆をとった。このエッセイに引用されているジョン・コルトレーンが初めて“ジャイアント・ステップス”をレコーディングした際の、バンドの連中と交わす会話にも、彼が説き明そうとする物語の重層的な仕掛けが現れることを示す。コルトレーンは「何か伝えようとしているんじゃない、単にチェンジ(コード・チェンジ)をやろうとしているんだよ。ストーリーじゃない、たとえば黒人の物語とかじゃない」と言うと、メンバーの一人が答えて「まさにそれだ。本当に君はチェンジ(変化)を起こして、それがストーリーとして伝わるんだよ」という。この言葉に驚いてコルトレーンはその会話の最後のほうで、「チェンジ自体がストーリーのようなもんなんだ、なあ、そうだろ」と言う。いつの間にか、この曲を演奏するコルトレーンの意識は、仲間と交換するイメージを介してコミュニティーの物語と響きあう。ヴィジェイが選んだアルバム・タイトルや曲名は、トリオの演奏に、音楽の外からさまざまな物語を差し込む。故チック・コリアから贈られたピアノ、亡くなった詩人のことを思いやることが生む物語。あるいは、“Human Nature“以来、久しぶりに持ち込まれたポップス“Overjoyed”。
このエッセイ自体は、即興演奏を認知科学の立場から分析するもの。演奏時の身体の動きにパラメーターを設定し、動きを数量化して、即興演奏家が何を試み、演奏の瞬間に何が起きていたのかを計測する。その結果として現れるアフリカ系アメリカ人の即興演奏(セロニアス・モンクが取り上げられる)が反証し、凌駕するのは、すでに西欧の即興演奏のナラティブとして受け入れられているディレク・ベイリーの本、「インプロヴィゼーション」が示す即興の世界観なのかもしれない。そして、このトリオの演奏のインスピレーションの源泉である「直観的な空間」は、アフリカ的な属性を帯びていて、それ故にシュトックハウゼンの直観音楽とは区別されるべきなのだろうか。