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“プッチーニ”から“フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド”へ
日本が誇る山田太一の名作小説を見事に翻案した傑作

 先頃発表された第96回アカデミー賞で日本映画3作品が健闘し、「ゴジラ-1.0」と「君たちはどう生きるか」が見事受賞に輝いたのは記憶に新しい。だが、日本には特撮とアニメ以外にも世界を唸らせる映画や物語がたくさん存在する。昨年、惜しくも89歳で逝去した名脚本家・山田太一が1987年に出版した小説「異人たちとの夏」を、アンドリュー・ヘイ監督が自ら脚色してイギリスで映画化した「異人たち」を見て、改めてそれを強く感じた。

 原作の「異人たちとの夏」は、12歳で両親を亡くした中年男性のシナリオライターが、死んだはずの両親と故郷の浅草で再会するという、ひと夏の不思議な出来事を描いている。普通に考えれば、その両親は幽霊ということになるけれど、山田が書いた物語は怪談噺というより、むしろ人情噺と呼ぶのがふさわしい。もし、両親と死に別れになった子供が何らかの手段で再会を果たした場合、どんな〈ホームドラマ〉が起こり得るのか、そこに物語の主眼が置かれているからである。

 この原作、実は大林宣彦監督が1988年に松竹で映画化している(以下、大林監督版と表記)ので、ご覧になった読者も多いかもしれない。原作のセリフをほぼそのまま使用し(脚色はやはり名脚本家として知られた市川森一)、大掛かりなロケ撮影で昭和の浅草を鮮やかに描き出した大林監督版以上に、作に忠実な映画化はおそらく今後も不可能だろう。

 では、なぜアンドリュー・ヘイ監督はあえて再映画化に挑んだのか? 今回の「異人たち」と大林監督版のキャスティングに注目してみると、その違いからヘイ監督の演出意図が見えてくる。

 大林監督版では、主人公の父親(原作同様、浅草の寿司職人という設定)を演じる片岡鶴太郎が昔気質の江戸っ子になりきっていた。これに対し、今回のヘイ監督版では主人公アダム(アンドリュー・スコット)の父親をジェイミー・ベルが演じている。「リトル・ダンサー」で少年バレエ・ダンサーを扮していた、あのジェイミー・ベルだ。その彼が演じる父親(役名は単に〈アダムの父親〉となっている)が主人公と言葉を交わし始めた瞬間、我々観客は忘れかけていた記憶が遠い過去から甦ってきたような、一種のデジャヴュにとらわれるだろう。下町らしい強烈な個性で主人公の記憶を呼び覚ます大林監督版の片岡鶴太郎とは逆に、どこにでもいるような無名性の強い父親像を演じたジェイミー・ベルは、浅草とは全く無縁のロンドン郊外で、誰もが親しみを覚える懐かしさを見事に体現している。

 ヘイ監督がこういう父親像に変えたのはなぜか? 言うまでもなく、原作の“ホームドラマ”を普遍的な物語として映画化するためだ。死別であれなんであれ、両親と別れざるを得なくなった人は、心の中で両親との再会を願い続けるだろうし、仮にその再会が実現するのであれば、両親に伝えたいこと、伝えなければいけないことがあるだろう。そこに、原作の〈ホームドラマ〉の核心が存在する。そこで、ヘイ監督はその核心に迫るため、驚くほど大胆なアプローチを試みた。

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 原作、それから大林監督版では、両親との再会のエピソードと並行する形で、主人公が同じマンションに住む謎の女と恋に落ちるラブストーリーが描かれている。ところが今回の「異人たち」では、そのラブストーリーがゲイの恋愛に置き換えられているのである。主人公のセクシュアリティが原作から大幅に改変されているので、「原作に忠実であるべし」という尊重派はおそらく大きな衝撃を受けるだろう。しかしながら、ヘイ監督が本作で試みたBL的な脚色は、もともと原作に含まれていた潜在的なテーマを引き出すきっかけにすぎない。親の世代の(伝統的・保守的な)価値観と、我々の(クィアの時代の)価値観が数十年の時の隔たりを経て衝突した場合、家族は元の家族のままでいられるのか? それが今回の「異人たち」の最大のサスペンスであり、つまりは山田の原作が潜在的に孕んでいたテーマなのだ。

 さらにヘイ監督は、原作の改変に説得力を与えるために音楽を重要な小道具として用いているが、これから述べるように、なんとその仕掛けは山田の原作に由来しているのである!

 映画冒頭、主人公がフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドの“パワー・オブ・ラヴ”のクリップを漫然と見ていると、隣人のハリー(ポール・メスカル)が「一緒に日本のウィスキーを飲まないか」と突然押しかけ、去り際に「ヴァンパイアが僕のドアにいる」と謎めいた言葉を口にする。“パワー・オブ・ラヴ”の歌詞には〈Keep the vampires from your door〉、つまり君のドアからヴァンパイアを追いやるというフレーズが出てくるので、隣人のセリフが歌詞を踏まえているのは明らかだ。

 1983年、日本を含む各国でデビュー・シングル“リラックス”が放送禁止処分をくらったフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドは、ゲイを全面に出した宣伝戦略で大論争を巻き起こした。つまり、現在ほど同性愛が容認されていなかった80年代の空気感を象徴するバンドなのだ。その彼らのサード・シングル“パワー・オブ・ラヴ”が、ずばり「異人たち」の〈愛のテーマ〉の役割を担っているのである。

 そして驚くべきことに、実は山田の原作でも歌が重要な鍵を握っている。主人公に恋する謎の女が愛聴しているプッチーニ「ジャンニ・スキッキ」~“私のお父さん”がそれだが、山田は歌の意味を強調するため、なんと原作の中で歌詞の一節をわざわざ女に語らせているのだ。「でも、彼との愛が実らないなら、アルノ河に身を投げてしまうわ」(山田太一「異人たちとの夏」新潮社より)。

 大林監督版は、その“私のお父さん”が流れるショッキングな場面で文字通りオペラティックなクライマックスを迎えるが、卑猥な“リラックス”とは真逆の崇高な曲想で書かれた“パワー・オブ・ラヴ”(MVに出てくるキリスト生誕の物語にちなみ、リリース当時は“愛の救世主”という邦題が付けられた)が流れる「異人たち」は、当然のことながら大林監督版とは肌触りが大きく異なる作品となっている。ヘイ監督が本作で描いたクィアの文脈にふさわしいのは、ヘテロセクシュアルなプッチーニよりも、やはりフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドだろう。だが、それよりも重要なのは、プッチーニのアリアもフランキーのバラードも、本質的には情熱的な愛の歌でありながら、ほんの微かに死の危うさが漂ってくるという点だ。つまり、ヘイ監督は山田の原作の意味を咀嚼しながら、“パワー・オブ・ラヴ”を選曲していたのである。あまりにも見事な脚色に、思わず膝を打った。これぞ、原作の精神を汲み取った翻案の鑑だ。こういう形で日本のすぐれた物語が世界中に紹介されるのであれば、どんどん歓迎すべきだと思う。

 


MOVIE INFORMATION
「異人たち」

監督&脚本:アンドリュー・ヘイ
原作:山田太一「異人たちとの夏」(新潮文庫刊)
音楽:エミリー・ルヴィエネーズ=ファルーシュ
出演:アンドリュー・スコット/ポール・メスカル/ジェイミー・ベル/クレア・フォイ
原題:ALL OF US STRANGERS
(2023年/イギリス映画/上映 時間:1時間45分/R15+)
字幕翻訳:牧野琴子
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
©2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.
2024年4月19日(金)より全国ロードショー
https://www.searchlightpictures.jp/movies/allofusstrangers