AIシティポップとオリジナリティ、著作権と盗作問題
第一の理由には、比較的簡単に思い至ります。文章やイラスト、映像の分野でも同様の議論が巻き起こっていることからも分かる通り、膨大な既存コンテンツを参照して新たなコンテンツを作り出すという生成AIの方法論自体が、著作権法に抵触するのではないかという問題が、ここでも提出されているのです。
あいにく私はこの分野の専門家ではないので深入りは避けますが、一般的な生成AIによって作られた音楽の利用は、基本的には著作権法上許容されると理解されています。その一方で、特定のアーティストの〈オリジナリティ〉を意図的に模倣し、それを明確な利益目的に使用する場合など、不当と判断されうる場合もあるでしょう。〈AIシティポップ〉にも、一部から、まさにそうした〈オリジナリティ〉の収奪にあたるのではないかという疑義が投げかけられています。
元来シティポップは、インストのビートミュージックやアンビエント等とは異なり、音楽的なフォルムが比較的くっきりとしたもので、Aメロ、Bメロ、サビといった一般的なポップスの構造をわかりやすく体現しているジャンルでもあります。また、リズムのシンコペーションやハーモニー、楽器の選択などに関しても、(下で述べる通り、かなりゆるやかながら)ある一定の〈協約〉が共有されていますし、その〈協約〉の相当部分は、結果的には、既存の著作権法の体制と親和的な作詞家/作曲家/実演家等の協働体制とともに醸成されたものでもあるのです。そのため、シティポップのそうした特徴をジャンル特有の〈オリジナリティ〉と捉えた場合、当該のAI生成トラックが収益を生み出す際に、そこになにがしかの収奪的な構造を見出すのは、たしかに道理に適っているとも言えそうです。
しかしながら、人間同士の盗作事案と同じく、例によってその度合いや範囲を図る厳格な基準の設定は簡単ではなく、加えて、AIが行っている計量不可能なレベルの膨大な〈参照〉と〈引用〉に対して、〈盗作〉という概念をそのまま当てはめるのが適当なのかという疑念もあります。なぜなら、それを〈盗作〉であると即断してしまうと、(結局のところAIと同じように)参照と引用の綾をベースに成り立っている人間の創造行為全般が、おしなべて〈パクリ〉との誹りを受けざるを得なくなるわけですから。これではいかにも本末転倒です。
が、更に翻ってみれば、例えば一定量以上のメロディーや歌詞が既存著作物と明確な符合を示している場合などを代表的な例として、厳しく対処すべき事案も出てくるかも知れません(そうしたことからも、いわゆる〈グレーゾーン〉の事案は個別に専門家の知見を仰ぐべき問題かと思われます)。
曖昧にゆらぐシティポップの定義
第二の論点は、より内在的なものです。先ほど紹介した動画をはじめ、YouTube上にアップされている様々な楽曲をじっくり聴いてもらうと分かる通り、たしかに〈シティポップ〉と名指しうるゆるやかな〈協約〉の範疇にありながらも、オリジナルのシティポップと比べた場合に、メロディー、アレンジ、声質、譜割り、ミックス等に違和感があるのも事実なのです。実際は〈アイドルポップス〉と言ったほうが近い曲もあったり、シティポップにほんのりと影響を受けた現代の都会的なポップス、つまり、〈ネオシティポップ〉と括られているサウンドに近いんじゃないか、と思わされるトラックも多々あります。
要するに、これまでのシティポップブームの過程で盛んに議論されてきたのとおなじく、シティポップという音楽の定義の曖昧さに由来するサウンドイメージのゆらぎ(このあたりの詳細や歴史的な経緯については、拙編著「シティポップとは何か」をお読み下さい)が、そのままAIの生成するサウンドにも反映されているのです。これは、生成AIの仕組みに今一度フォーカスすれば、すぐに得心のいくところです。
そもそもこの場合の生成AIは、Web上で〈シティポップ〉として任意にカテゴライズされている楽曲を大量に学習することで、その類型を割り出しながら〈オリジナル〉楽曲を出力しているわけです。当然ながらそこにゆらぎが混入することもあるでしょうし、プロンプトの与え方の巧拙や、出力されたものを採用するかどうかを判断する各プロンプターの審美眼によっては、そのゆらぎがはるかに増大してしまう場合も想定されます。だからこそ、確固とした狭義のシティポップ像を持っているうるさ型のリスナーからは、多くの人がそのクオリティに素直に感嘆しているのを尻目に、〈こんなのシティポップじゃないね〉と(ときに嘲笑含みに)退けられてしまうわけです。