村八分はロックンロールの魂を掴んでいた――久保田麻琴が魅力を語る!!
71年から73年にかけてのわずかな活動期間にもかかわらず、日本のロック黎明期にその名を刻んだバンド、村八分。ヴォーカルの柴田和志(通称チャー坊)とギターの山口冨士夫を二枚看板とする彼らは、ローリング・ストーンズばりの危険な香り漂うロックンロールを鳴らし、解散後もカルト的な人気を獲得した。先頃『一九七三年一月 京都大学西部講堂』『三田祭 1972』という村八分の貴重音源がアナログ化されて話題となったが、このたび最初期のスタジオ録音と71年7月のライヴ音源をまとめた『1971(くたびれて/ぶっつぶせ!!)』がアナログ・リリース。ジャケットには村八分結成前、サンフランシスコのアパートで撮影されたチャー坊の未公開写真が使用され、前2作同様、久保田麻琴がリマスタリングを施した。村八分と同時期に裸のラリーズのメンバーとして活動し、当時、村八分のライヴも体験しているという久保田に話を聞いた。
――まずは久保田さんと村八分との付き合いについてお訊きしたいのですが。
「実はチャー坊とはちゃんと会ってないんですよ。冨士夫とはのちに一緒にレコーディングもしてるけど、村八分のころはまだ面識はなかった」
――久保田さんが当時参加していた裸のラリーズと村八分は同じ母体から派生したバンドだったという話がありますよね。
「70年に京都で〈円山オデッセイ〉というイヴェントがあって、私もラリーズのメンバーとして演奏したんだけど、そのときに冨士夫たちも出ていました。しかも裸のラリーズと名乗って。そのときのイヴェントには2つのラリーズが出てたんです。冨士夫がスロウ・ブルースを弾いてて、みんなが〈冨士夫ちゃん、ええなあ!〉と言ってたことを覚えています」
――久保田さんはその後アメリカで放浪生活をされたそうですね。
「7か月ほどアメリカにいたんだけど、帰ってきてしばらくしてから冨士夫たちのバンドが村八分という名前でやってることを知ったんですよ。私がアメリカに行く少し前にチャー坊もサンフランシスコにいたでしょ」
――向こうでストーンズを観て、その衝撃が村八分に繋がったようですね。
「当時、アメリカでストーンズのライヴを観ておかしくなっちゃったやつを何人か知ってます。チャー坊もその一人だったということですね。私はグレイトフル・デッド派だったけど(笑)」
――初めて村八分のライヴをご覧になったのは?
「72年の〈三田祭〉だったかな、はっきり覚えてないんだけど、初めて目の当たりにしたときは驚きました。何これ?と。めっちゃカッコ良かったし、ステージのプレゼンスといい、サウンドといい、インパクトがすごかった。でも、それが最初で最後の村八分体験になってしまった」
――バンドとしては短命ですよね。70年代末や90年代にも断続的な再結成はありましたけど、実際の活動は70年代初期の2年半ですから。
「村八分やセックス・ピストルズみたいなバンドは短いんですよ。メンバーみんなが個性的だし。はっぴいえんどやプラスチックスだってそうでした」
――今度アナログ盤としてリリースされる『1971(くたびれて/ぶっつぶせ!!)』のA面B面に収められた6曲は貴重なスタジオ録音です。
「初期の録音だよね。あれは(音の)波形がちゃんとしていて、いい録音だった。C面D面は同じ年のライヴか(東京の北区公会堂で行われたライヴ録音)」
――8月にアナログとしてリリースされた『三田祭 1972』は翌年11月のライヴ音源が入っています。
「このときのライヴが観たやつだったと思う。村八分が始まる直前にドドッと客が増えて、前のほうで観た記憶がある」
――7月には『一九七三年一月 京都大学西部講堂』もアナログで出ました。
「エレックから出た『ライブ』も西部講堂のライヴだよね。あれが出たときはちょっと拍子抜けした。ロックを録ったことがないエンジニアがとりあえず安全に録った感じで。村八分は西部講堂で何度かやっていると思う」
――今回改めて村八分の音源と向き合ってみて、どんなことを感じられましたか。
「村八分は技巧のバンドじゃなかったけど、ロック心があったんですよ。ロックンロールのノリみたいなものをしっかり掴んでいた。ストーンズから強い影響を受けてるけど、曲をコピーしてるわけではなくて、スピリットをコピーしてるんです」
――なるほど。
「あと、プロト・パンク的なところがある。チャー坊はかなり崩れた歌い方をするけど、考えてみると、村八分が解散して3年後にはピストルズのジョン・ライドンがあの歌い方で出てくるわけだよね。最初は〈この歌、何?〉という感じだったけど、村八分はパンクという言葉が生まれる前にパンクなことをやっていた」
――村八分は結局、活動中にオフィシャル音源が世に出なかったわけですが(エレックの『ライブ』は解散後のリリース)、それはなぜだと思われますか。
「レコード会社に知性がなかったからだと思います。村八分をメジャーから出そうという動きはあったようだけど、上手くいなかった。あのころロックは本当にマイノリティーだったよ。フォークの時代だもん」
――ここ最近の久保田さんはかつて関わりのあったバンドの音源をリマスタリングしてふたたび世に送り出していますが、そうした活動にはどのような思いが込められているのでしょうか。
「身内の葬儀みたいな部分があって、仕事という意識ではないかも。ただ最近、ラリーズもサブスクではかなり聴かれていて、特にアメリカのリスナーからフレッシュな音楽として発見されているんです」
――今後、村八分もそのように〈発見〉される可能性がありますよね。
「そうだね。やっと橋が架かったということですね」
村八分のアナログ盤。
左から、『一九七三年一月 京都大学西部講堂』『三田祭 1972』(共にGOODLOVIN’ PRODUCTION/Tuff Beats)