
さて、過去にもこういうタイプの芸術映画がひとつあった。チェン・カイコー監督の「覇王別姫」がそれ。京劇における女形が主人公で、同性愛者であるということと、舞台上の自分と現実のアイデンティティが交錯するなかで生まれる悲恋と苦悩を、壮大な歴史のなかで描き切ったが、主人公を演じたレスリー・チャンもまた、当時、香港映画を代表する多忙を極めたスターでありながら、本作の吉沢亮を思わせる京劇女形の習得に励み、難役を演じ切っていた。そういえば、「国宝」も「覇王別記」も、芸術をテーマにしながらも、ヒューマンドラマとして深い感動を呼び起こさせるエンターテイメントの力が感じられる作品たちだ。
さて、演技の仕上がりがあった上で、この作品を舞台表現を軸とした難物映画として成立させたのは、ソフィアン・エル・ファニを起用した撮影センスと映像処理にほかならない。自然な時間軸の通りに撮ってしまえば、当然、本物には負けてしまう役者のムーブメントを、上下とサイド、背面から自在に切り取るカットアップ手法であり、それによって、〈芸の良いところ取り〉が可能になり、舞台とはまた異なる感動がスクリーンに宿る。ここで注目すべきは、映画ならではの伝統的手法、表情のクローズアップ。古くはカサヴェテス、今ではアリ・アスター監督などが得意とするものだが、特にライバルの最後の舞台となる「曽根崎心中」では役者ふたりの〈たましいの差し違え〉のごとくの鬼気迫る表情の移ろいには、心を鷲づかみにされてしまった!
キャスティングにも抜かりがない。自身も御曹司の母であり、女性ゆえに歌舞伎の名跡を継ぐことが不可能だった寺島しのぶが名門を支える妻であり母の役柄を担ったのは、まさに観客の想像力を大いに刺激する布陣。そして、すでに国宝である女形役の大名跡、万菊に、身体表現ジャンルのレジェンド、田中泯を起用したのは考えられる上では最高のキャスティング。これは私自身、故・中村歌右衛門が晩年「伽羅先代萩」で政岡を演じたとき、花道の七三で見せた苦悶の立ち姿と演技に、「これは舞踏だ!」と思った経験があり、李相日監督の歌舞伎に対する本質的な理解とセンスに深く頷かされる。
そして、全体的に歌舞伎ワールドの礼賛と肯定に満ちた作品世界で、ひとりだけ、世襲や芸事への無関心と無理解を示す興行会社の社員を演じた三浦貴大が効いている。舞台に心底魅了され、人生の時間を費やす人間は、実は思ったほど多くない。特に男性の多くは、プロ野球やサッカーに心を奪われており、そんな一般社会における芸術や芸事に対しての無関心は、三浦のような存在によって浮き彫りになっていく。

ディテールにこそ映画の神が宿る、とばかりに、どうしても観客は細部を読み取るたのしみから逃れられない。その点で言えば、本作において存在感を放つのは、主人公の背中一面に掘られたみみずくのタトゥーだろう。その理由としては、凶暴な猛禽類ではあるが、一度恩を受けた人間は絶対に忘れないという性質が主人公の琴線に触れたという下りが原作にはある。とはいえ、実際の主人公は芸道を極めるほど、周囲は傷つき、破滅していく人間が死屍累々となるわけで、この不条理がまた、人間社会の真実を射貫いていたりもするのだ。そのいっぽうで、シンボルとしてのみみずくは、〈死後の再生〉あるいは〈暗闇の中でも見る力〉といった意味があり、それは見事に芸の継承と変化、そして希望のメタファーとして機能する。
ちなみに落語界と落語家の世界を描いた、宮藤官九郎脚本のテレビドラマ「タイガー&ドラゴン」が、落語の面白さと奥深さを一般の人々に伝え、現在における落語ブームをつくったように、この「国宝」という映画作品が、歌舞伎のファン人口を一気に拡大させるのは明らか。また、今年は〈八代目尾上菊五郎 六代目尾上菊之助襲名披露興行〉が数多く実施され、歌舞伎界は今までに無い盛り上がりを見せている。六代目菊五郎と十三代目団十郎の、柔と剛を担い団菊と称されるカップリングは、ふたりとも今が脂ののりきった盛りの時期であり、彼らのこれまた超優秀なこどもたちも同世代。加えて、今は若手に素晴らしい役者がそろい踏みなのだ。この映画を見て、劇場に足を運んだならば、そこには、世界でも特別な歌舞伎という舞台芸術と伝統芸の境地がある。そのリアルな空気と芸を是非、堪能していただきたい。
寄稿者プロフィール
湯山玲子(ゆやま・れいこ)
学習院大学法学部卒。著述家、プロデューサー、おしゃべりカルチャーモンスター。著作に「女ひとり寿司」(幻冬舎文庫)、「クラブカルチャー!」(毎日新聞出版局)、「女装する女」(新潮新書)、「四十路越え!」(角川文庫)、上野千鶴子との対談集「快楽上等! 3.11以降の生き方」(幻冬舎)。「文化系女子という生き方」(大和書房)、「男をこじらせる前に」(角川文庫)等。TBS「新・情報7DAYS ニュースキャスター」等に出演。クラシック音楽の新しい聴き方を提案する〈爆クラ〉主宰。ショップチャンネルのファッションブランド〈OJOU〉のデザイナー・プロデューサーとしても活動中。日本大学藝術学部文芸学科非常勤講師。東京家政大学非常勤講師。
MOVIE INFORMATION
映画「国宝」
監督:李相日
原作:吉田修一
脚本:奥寺佐渡子
音楽:原摩利彦
音楽プロデューサー:杉田寿宏
主題歌:“Luminance” 原摩利彦 feat. 井口 理(Sony Music Label Inc.)
出演:吉沢亮 横浜流星 高畑充希 寺島しのぶ
森七菜 三浦貴大 見上愛 黒川想矢 越山敬達
永瀬正敏 嶋田久作 宮澤エマ 中村鴈治郎 田中泯 渡辺謙
配給:東宝
(2025年|日本|175分)
©吉田修一/朝日新聞出版 ©2025 映画「国宝」製作委員会
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