KING LEAR ©1988 Metro - Goldwyn - Mayer Studios Inc. All Rights Reserved

英国の文豪シェイクスピアの継承と破壊から映画作家の創造的遺産相続の作法を学ぶ。

 3人の娘たちを前に年老いた王が語り始める。私は権力の座を降り、国務などの仕事を若い世代に託すことで、あの世への旅立ちの準備を整えたいと思う。ついては、王国を三つに分け、お前たちに相続させるつもりだが、その前に、いかに父である私を敬い、愛しているか、それぞれの思いの丈を自分の言葉で表明してもらいたい。その言葉次第で自分を最も愛する者が誰であるかを判断したいのだ……。2人の姉が言葉巧みに父親を称え、喜ばせるのに対し、王にとって最愛の存在であったはずの末娘コーディリアはなぜか頑なに口を閉ざす。自分の父親への愛は言葉で説明し尽くせないほどに深く、いま姉たちが容易くそうしてみせたように、それを言葉に置き換えようとすればむしろ嘘になってしまう……。しかし、そうした娘の心情や態度を父は悲惨なまでにまったく理解できない。言葉の欠如をそのまま愛情の欠如と受け取り、怒りを爆発させるのだ。結局、世事に長けた2人の娘に領土と財産を譲り、心から自分を愛する末娘を追放さながらにフランス王に嫁入りさせることになる。ほどなくして2人の娘からぞんざいに扱われるようになった老人は、道化などのわずかな家来を連れて孤独に荒野を彷徨い、次第に正気を失うことになる……。

 もちろん(?)、ジャン=リュック・ゴダールは、シェイクスピアの戯曲をそのまま律儀に〈映画化〉するわけではない。そもそも「ゴダールのリア王」(1987)については、それが製作されるに至った経緯に注目が集まりがちで、なるほどそれはいかがわしくも興味深いエピソードではある。チャック・ノリス主演の一連のキワモノ的なアクション映画で成功を収め、飛ぶ鳥を落とす勢いだった新興のキャノン・フィルムズが、映画会社としての品位を高めようと俎上に載せたのが、誰もが知る文豪とフランスの有名監督を組み合わせる企画であった。しかしキャノン・フィルムズは、ゴダールがどんな映画作家であるかを把握できていなかったようだ。結局、長い紆余曲折を経て何とか完成した「ゴダールのリア王」は興行的に失敗、製作者側の卓越化の野望も完全には達成できなかったようだ。日本でもこれまで上映やソフト化の機会にあまり恵まれてこなかったことから、曰くつきの作品も少なからずあるゴダールのフィルモグラフィのなかでも〈呪われた映画〉とのレッテルを張られることが多い。

ジャン=リュック・ゴダール 『ゴダールのリア王』 IVC(2025)

 では、ゴダールは「リア王」のどこに関心を抱き、エッセンスを抽出したのか。その中心に置かれるのが、戯曲で口にされる〈NOTHING〉あるいは〈NO THING〉である。周知のようにゴダール作品ではテロップによる文字の提示も重要な表現手段となるが、「ゴダールのリア王」においてキーワードのように頻出するのが、〈NOTHING/NO THING〉である。もちろん戯曲でもそれが重要な意味を帯びる以上、NOTHINGは、シェイクスピアとゴダールが何世紀もの時を隔てて互いに関心を共有できた貴重な言葉なのだ。自分への敬いや愛を言葉で説明しろという父の理不尽な要求に対し、コーディリアはNOTHING(何もない)と答えたのだった。しかし、それは〈私はあなたを愛していない〉という否定の言辞ではない。言葉にできないほどの深い敬いや愛が、NOTHINGと言語化されざるを得なかったのだ。そうした単に〈無〉(否定)なのではなく、〈無が存在する/存在する無〉(肯定)と意味づけされるかのようなニュアンスは日本語に見つけにくいものだが、英語を母語とするはずの父親にとっても理解できないようだ。彼にとってNOTHINGは否定や無でしかなく、そのことは、彼がすぐさま「Nothing will come of nothing」(何もなければ何も出てこないぞ)と娘を糾弾することから伺える。権力(=所有)を愛する王にとってNOTHINGはどこまでも〈無(価値)〉なのだ。