対話=コミュニケーションの魅惑を、いま新たに映画に再導入すること。
知ってた? あのQ&Aから、まだ半日も経ってないの……。
最新作「急に具合が悪くなる」の中盤辺り、舞台演出家である日本人女性・森崎真理が、パリ郊外に位置する介護施設〈自由の庭〉でディレクターを務めるフランス人女性・マリー=ルーにそう語りかける。実際、わたしたち観客もふと我に返り、濱口竜介の映画に特徴的といってもいいだろうが、むしろ映画(cinema)に固有の魅惑であるとしておくべきかもしれない〈時間〉の魔法にかかった状態にあった自分に気づかされる。
場所は暗がりのなかにある〈自由の庭〉だが、正確な時間は分からない。というか、真理の先の台詞は、時計で計測できる〈量としての時間〉とは別に、〈質としての時間〉があることを示唆する。難しい話ではない。たとえば、久々に再会した知人と夜遅くまで飲み歩き、ふと気づくと辺りが白みかけている。あるいは、オールナイトの映画上映が終わり、何時間かぶりに外気の寒さに触れて震え上がる……。そんなとき、わたしたちは時計で測ることのできない〈質としての時間〉に触れるのではないか。なるほど他方でわたしたちの社会は〈量としての時間〉を必要としている。労働も時間で測られ、労働時間に応じて賃金が支払われる。だけど、そうしたものとは異なる〈時間〉が、何本もの優れた映画において、そしてむろんそのなかに含まれる濱口の映画にいつも出現する。
わたしたちは2人の女性のあいだで断続的に交わされる長くて刺激的な対話を見聞きしてきたのだった。職場での軋轢に悩むマリー=ルーは、救いを求めるように、真理の演出による舞台を鑑賞するため劇場を訪れた。正確にいうと、2人はその数日前に顔を合わせている。路面電車に乗るマリー=ルーは、なぜかそれと並走する謎めいた日本人の少年を大きな窓越しに目撃する。ジョン・カサヴェテスの「オープニング・ナイト」で女優マートルが自動車の窓越しに熱狂的なファンの女性とその死を見届ける際の不穏さを想起させつつ、マリー=ルーは不意に出現したノイズに引き寄せられるのだが、その少年を介して真理に出会い、「近くでみれば誰もまともではない」というタイトルの演劇のチラシを渡されるのだ。彼らの出会いを境に、映画は急激に多言語化し、自らが〈対話=コミュニケーション〉を問う作品であることをあらわにする。舞台もフランス語と日本語が入り混じるが、さらに上演後のQ&Aで言語や翻訳をめぐり、緊張感を帯びたやり取りが交わされる。客席のマリー=ルーが日本語で真理に質問すると、自分が進行がんで余命半年と宣告されたことをやはり日本語で真理は告白する。すると日本語を理解できない客席からフランス語に翻訳しろ、と苛立ちの声が上がる……。異国語は他者とのコミュニケーションを実現するうえで重要な手段だが、それを理解できない側に立てば、自身を閉ざす壁とも受け取られるのだ。
公演が何時に始まり、終わったのか、どのくらいの上演時間を要したのか……といった時計上の時間はやはり定かでない。映画は〈量としての時間〉を度外視しながら、しかし、だからこそ、〈時間〉の推移を見事なまでに画面に定着させる。辺りが暗くなり始める夕刻、劇場の外で落ち合った2人は、フランス語と日本語を交え、互いの来歴を皮切りにさまざまな議論を重ねながらセーヌ河のほとりを歩き、いつしか夜の帳が下りる。やがて電話でマリー=ルーが〈自由の庭〉に呼び出されると、〈今夜は帰りたくない〉などと恋人めいた言葉まで口にされ、真理も同行することになる。その後も対話は続き、最後の最後、夜明けの気配も感じられる薄明の時間帯になって冒頭で紹介した真理の台詞にたどり着くのだ。
映画のクライマックスを形成する2人の女性の対話については注目したいことが幾つもあるが、たとえば、言葉の交換から醸し出されるエロティシズムがその一つである。複数の人物の交わり(対話)はやはりどこかエロティックであり、それは前述の「今夜は帰りたくない」のような(思わせぶりな?)台詞に限らず、対話全体のいわば主題になる〈資本主義〉についての硬派なやり取りでさえ、単なる理論の披歴や選挙演説の類いに留まらない(冒頭付近で介護技術の研修生が、こんなに丁寧な介護を本当にやるはずがない、これは外面のための選挙演説にすぎない、と呟く)。それはなぜか。彼女らの仕事が結局は〈自然〉の略奪に基づく資本主義の支配下にあるとすれば、その〈構造〉の分析や解明が、〈理論のための理論〉に収まることなく、実践や戦略のためのしなやかな武器に転じ得るからだ。