© Teatro alla Scala
孤立した弱者に対して、どれほど集団というものが暴力的になるか
20世紀オペラの最高傑作のひとつ、ベンジャミン・ブリテン作曲、モンタギュー・スレイター台本による「ピーター・グライムズ」がついに14年ぶりに新国立劇場で上演される。2023年にミラノ・スカラ座で大きな反響を呼んだロバート・カーセン演出による新制作で、オペラ芸術監督の大野和士自らが東京フィルを指揮する。
今年はブリテン没後50年ということもあり、あちこちで演奏が相次いでいるが、大野も都響で何度かブリテンを取り上げており、「ピーター・グライムズ」に向けて集中を高めているのは明らかだ。
現代人にとって重要なテーマである〈貧困と孤立〉を扱ったシリアスな悲劇という意味では、アルバン・ベルク「ヴォツェック」(1925年)と双璧とも言える「ピーター・グライムズ」(1945年)だが、カーセンもスカラ座公式サイトに掲載されたインタヴューで次のように答えている。
「もし『ヴォツェック』が存在しなかったら、ブリテンは『ピーター・グライムズ』を書かなかったかもしれない、と言えるでしょう。しかし、さらに深く考えてみると、ヴォツェックの他者との関係性はグライムズのそれとは異なります。ヴォツェックは――その言葉を使いたければですが――最初から狂っています。ピーター・グライムズがそうなるのは最後だけです。しかし、グライムズの本当のドラマとは、彼が〈本当に物事をうまく機能させたい〉と願っていることだと私は思います。彼は教師のエレンと結婚して成功を収めたいと考えているのですが、自分が実際に何をしているのかを自覚することなく、それが可能だと自らに言い聞かせているだけなのです」
カーセンの語っているところの「物事をうまく機能させたい」とはどういうことか? イギリスの小さな漁村で孤立し苛められている漁師ピーターが願っているのは、たくさんの魚を獲ってお金と自由を得て、普通の家庭生活を営みたい、それだけである。
ところが村人たちはそれを許さない。彼は少年殺しのサディスト漁師だと決めつけているのだ。今風に言えば完全なコミュ障の引きこもり、そして怒りの発作でつい暴力を振るってしまう悲しい性格である。証拠はなくとも疑惑があれば十分。閉鎖的なムラ社会の中で、ピーターは徹底的に嫌われているのだ。
心優しい教師のエレンや、冷静なバルストロード船長などの理解者もいるのだが、結局ピーターは生まれついたはずのこの村で、決して安住できる場所を見つけることはできない。

© Teatro alla Scala
このオペラで真に恐ろしいのは第三幕で、さまざまな意見を持っていたはずの村人たちが、同調圧力と集団心理によって一致団結し、憎しみと怒りを増幅させてピーター・グライムズの名を激烈に叫ぶシーンであろう。
カーセンの演出は、孤立した弱者に対して、どれほど集団というものが暴力的になるかを、残酷なほどに可視化したものだ。現代のネット社会においてもその傾向が一層顕著になってきていることは、言うまでもない。
村人たちの人間群像が奥深く描かれているのも、このオペラの面白いところだ。たとえば、東インド会社の不労所得生活者で未亡人のセドリー夫人。彼女は心を病んだおかげでアヘンチンキ中毒となっている。自分以外の全員を軽蔑しており、他人の醜聞に異常なまでの関心を示す。ピーターの素行を徹底的に監視し、犯罪の匂いを嗅ぎまわる。それこそが、彼女を生き生きとさせるのだ。おそらく本来はそういう性格ではなかったのに、なぜセドリー夫人はそのように壊れてしまったのか。二度の大戦によって病んだイギリスの社会背景もそこには秘められている。
イギリスらしさといえば、エレンが少年のために編んだ刺繍の美しさを歌うシーンも素晴らしい。〈人生を夢見させてくれる〉〈不思議な物語を語ってくれる〉〈絹のある暮らしを子供たちに与えてあげられたら〉――そんな詩的な小さなエピソードに出合えるのも、このオペラの魅力である。
© Teatro alla Scala
そして何よりもブリテンがこのオペラに盛り込んだ最大の特徴は海の香りである。“4つの海の間奏曲”として知られるオーケストラの部分は、オペラの話の流れの中で鳴り響くときにこそ、真の凄みを発揮する。
自然と共に暮らす村人たちの信仰の美しさと、宿痾ともいえる村八分の暴力性、救われることのないピーターの孤独と死の匂い。それらがすべて暗い海鳴りのような響き、潮の香りとなって、観客席に押し寄せてくる。
主役ピーター・グライムズをミラノ・スカラ座で歌ったテノール、ブランドン・ジョヴァノヴィッチが新国立劇場でもキャスティングされているのも嬉しい。彼の鬼気迫る歌唱と演技は、東京での上演では一層の磨きがかかっていることだろう。その他のキャストも万全の布陣が敷かれている。
イギリスの芸術文化に関心を持っているあらゆる人々に、そして孤立した個人に対する集団社会の暴力というテーマに共鳴できるあらゆる人々に、これは強くお勧めしたいオペラであり、演劇である。
INFORMATION
ベンジャミン・ブリテン
ピーター・グライムズ<新制作>
2026年11月23日(月・祝)東京・初台 新国立劇場 オペラパレス
開場/開演:13:15/14:00
2026年11月26日(木)東京・初台 新国立劇場 オペラパレス
開場/開演:13:15/14:00
2026年11月29日(日)東京・初台 新国立劇場 オペラパレス
開場/開演:13:15/14:00
2026年12月2日(水)東京・初台 新国立劇場 オペラパレス
開場/開演:13:15/14:00
2026年12月5日(土)東京・初台 新国立劇場 オペラパレス
開場/開演:13:15/14:00
■スタッフ
指揮:大野和士
演出・照明:ロバート・カーセン
美術・衣裳:ギデオン・デイヴィー
照明:ピーター・ヴァン・プラート
映像:ウィル・デューク
振付:レベッカ・ハウエル
演出補:オリヴァー・プラット
■キャスト:
ピーター・グライムズ:ブランドン・ジョヴァノヴィッチ
エレン・オーフォード:サリー・マシューズ
バルストロード船長:ジョーダン・シャナハン
アーンティ:ニコール・ピッコロミーニ
姪1:渡邊仁美
姪2:今野沙知恵
ボブ・ボウルズ:糸賀修平
スワロー:河野鉄平
セドリー夫人:齊藤純子
ホレース・アダムス:村上公太
ネッド・キーン:吉川健一
ホブソン:大塚博章
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団