時代が生み出した美しくも残酷な名作

 大戦から15年も経っていない1958年、ヒロシマとヌヴェールの姿をおりこみながら、フランス人女性と日本人男性2人のあいだにコトバとカラダが交わされる。この土地におこったことの記憶と、訪れるものとが抱くものとの交差とずれが、ヒトがヒトであることをあかすような「みる/みない」「おぼえている/わすれる」「わかる/わからない」といったコトバのやりとりから、しみだしてくる。

 何度もみている。いや、何度か、みている映画。あいだをおいてみるたびに、皮膚から肉へ、骨へと浸透してくるものがある。そして、しばらく遠ざかる。忘れる。ふたたびみて、あらたにする。

アラン・レネ, エマニュエル・リヴァ 『二十四時間の情事 ヒロシマ・モナムール 新装版』 IVC(2026)

 G・ドルリューの――特徴的な、新古典主義的な、あるいはフランス近代的な――音楽がないところ、コオロギの、カエルの、イヌの声がひびいている。豆腐売りのらっぱが、オートバイが、咳が、教会の鐘がとおりすぎ、ときに演歌や民謡も。

 太田川か、川の水のゆれが、エマニュエル・リヴァの、岡田英次の顔にうつっている。白黒であるがゆえに気づくことができるその凹凸、陰影。

 戦争反対、核反対のプラカードやデモが、祭りが、道をとおってゆく。大戦はまだ生々しく、遠くない。そのさまを、時代が隔たったところからみなおしている2026年。

 公開されたとき「二十四時間の情事」とのタイトルだった。嘲笑し苦笑していた時期もあった。だがそれもすでに歴史の一齣。その時代を喚起するコトバだったようにも感じる。恋愛映画として売ろうという目論見もあったろう。

 岡田英次のゆっくりしたフランス語は、ゴダール「未来展望」のジャック・シャリエの話しかたとオーヴァーラップし、冒頭におかれた砂あるいは灰にまみれる上半身は、勅使河原宏「砂の女」を想いおこさせる。

 マルグリット・デュラスの書いたことば、対話のことばは、映画をみるたびに、わからなくなってくる。わかったような気がしていたのが薄れ、わからなさが露出して。

 E・リヴァがこの映画撮影の際、広島(の日常)を撮影した写真は、世紀があらたまった2008年、発見され、写真展が開かれ、写真集(「HIROSHIMA 1958」、インスクリプト)が刊行された。港千尋「愛の小さな歴史」(インスクリプト)を併せて読むと、映画と時代と女優とのひとつの奇跡を知ることができる。