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スパイク・ジョーンズが描く近未来SFのテーマは、AI(人工知能)との恋!

 スカーレット・ヨハンソンが声のみの出演でヒロインを演じ、かつその演技が大きな話題を呼んだという。声だけなのに、すごい、というわけだ。しかし私たちは彼女の過去の出演作のいくつか、どんなに少なくとも2~3作は見ているはずなので、その声が彼女のものと知りながらこの映画を見た場合、どうしても彼女の姿を想像させられてしまう。彼女自身は視覚的にはまったく登場していないにもかかわらず、その顔や仕草が画面にちらついてしかたがないのだ。この映画は、スカーレット・ヨハンソンという大女優の姿かたちが広く認知されていることによって、私たちがコミュニケーションのうえでいかに相手の顔を見ること、体に触れることを欲しているかを教えてくれる。その意味で、このヒロインを演じるにあたっては、文字どおり声のみの出演を専業とする声優には不可能であったはずだ。

スパイク・ジョーンズ 『her/世界でひとつの彼女』 ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント(2014)

 宮崎駿監督の映画を例に出そう。宮崎作品では声優ではなく俳優や歌手やテレビタレントがキャスティングされることが常である。美輪明宏、森繁久彌、糸井重里、菅原文太、夏木マリ、加藤登紀子、我修院達也、倍賞千恵子、木村拓哉、山口智子、長嶋一茂、所ジョージなど、いずれも、とくに映画ファンのあいだでなくとも(日本国内においては)その顔がよく知られている人物ばかりだ。が、そういった周知のキャスティング方針じたいはこの稿に関係ない。しかし、あれほど有名な彼ら彼女ら自身の顔が観客の眼前にちらつかないのはなぜなのか。それは映画の中にアニメーターによって描かれた〈顔〉、人物(動物)が登場することで、声の主に代用の身体が視覚的にあてがわれているからだろう。

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 いっぽう「her」でのスカーレット・ヨハンソンは、宮崎作品における〈声のみの出演者〉とは事情が大きく異なる。なぜなら彼女が演じているのは〈サマンサ〉と名付けられた近未来のコンピュータのOSであるため、代用の身体というものが登場しないからだ。だからこそ私たちの眼前には、身体の不足を補おうとするあまりその声の主であるヨハンソン本人の姿が結局ちらついてしまうのである。

 しかし、〈ちらつく〉のは観客である私たちだけなのだ。それを忘れてはいけない。〈サマンサ〉と恋に落ちた主人公のセオドア(ホアキン・フェニックス)にとってその声は、あくまでもサマンサの声なのであって、決して〈この声スカーレット・ヨハンソンだろ〉とも〈俺の彼女はスカーレット・ヨハンソン〉とも思ったりしない。この映画を見ている第三者である私たちのようにヨハンソンの姿を想像したりなどできないのだ。私たちは姿のない相手に恋をしてしまった近未来の男の苦悩、姿のない自分に〈代用の身体〉を用意して彼を慰めようとする女(超進化型OS)の苦悩を、結局は理解できなかったのではないか。劇中に二度ほど、〈恋人同士〉が一緒に歌を歌うというきわめて二十世紀的な親しみに満ちた場面がある。その愛おしさに私たちがときめきと安堵を抱いてしまうのは、そこに一組の男女が確かに存在するものと、スカーレット・ヨハンソン(とスパイク・ジョーンズ)によって騙されているからだろう。