ジャズ、ユートピアの形
A SHAPE OF JAZZ TO GO

 光は粒子であり、波動でもある。子供のとき光についてそう説明されたときに受けた当惑は、オーネット・コールマンの音楽や説明をはじめて聞いたときに受けた当惑に似ている。

 intoxicateの読者には説明不要だろうが、オーネット・コールマンはフリー・ジャズという言葉と不可分な人としてジャズ史に記録されている。オーネット自身はフリー・ジャズという言葉がそれほど好きではなかったようで、後にハーモロディクという言葉を発明するが、とにかくいまだに世間一般では、彼の演奏を聞いたことがある人より、フリー・ジャズという言葉を聞いたことがある人のほうが多いことはまちがいない。

 演奏者が全員好き勝手に演奏して、にぎやかに盛り上がっている、なんだかよくわからないけど、というのがフリー・ジャズに対するパブリック・イメージである。それは彼のダブル・カルテットによる『フリー・ジャズ』というアルバムのイメージが勝手に一人歩きしているからだが、山下洋輔の肘打ちピアノが果たした貢献も少なくないかもしれない。ま、ぼくの認識もいまだにパブリック・イメージに毛が生えた程度に近い。

 おーい。編集者。いいのか。こんな奴に書かせて。という声も聞こえるが無視して先に進む。

 リアル・タイムで聞いたと自慢したいところだが、オーネット・コールマンがアトランティック・レーベルから『ジャズ来るべきもの』を発表した1959年には、ぼくはまだ小学生だった。59年はポップな世界ではロックンロールが死んだ年として知られているが、ジャズにとっては実り多い年だった。この年の3月と4月にニューヨークではマイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』が、5月にはロサンゼルスで『ジャズ来るべきもの』がレコーディングされた。どちらもジャズの歴史に後戻りのできない変化を加えたアルバムだ。

【参考動画】オーネット・コールマンの59年作『ジャズ来るべきもの』収録曲“Lonely Woman”

 

 オーディオ評論家の朝沼予史宏さんは、上京して最初に渋谷のジャズ喫茶に入ったら、このアルバムがかかっていて、人生が変わったという話をされていた。なんとドラマチックな出会いだろう。その話を聞いたときは、レコードとの出会いにも、才能や運のあるなしが関係しているのだなと感じ入った記憶がある。それにくらべたら、ぼくの場合は、名盤とされているから、とりあえずお勉強で聞いておくか、というような出会いだった。われながら散文的な人生を送ってきたものだ。

 聞いての第一印象は、このレコードのどこがフリー・ジャズなの、ずいぶんわかりやすいメロディを吹く人じゃないか、というものだった。なにしろこちらは「フリー・ジャズ=全員好き勝手に演奏して、にぎやかに盛り上がっている」という認識だったから仕方がない。

 その認識は多分にジョン・コルトレーンの音楽にも負っている。トレーンはオーネットから受けた影響を彼なりの奏法で深化させていった人だ。ぼくは熱心なジャズ・ファンではなかったが、ジャズ喫茶を出て街を歩いていると、さっきまで聞いていたトレーンの『アセンション』のサックスの音が耳や鼻の穴から出てくる、程度の経験は積んでいた。

 トレーンの激しい演奏にくらべたら、『ジャズ来るべきもの』は音圧的にぬるく感じられる。後追い体験には往々にしてそういうところがあるが、いまはじめて聞く人にとっても、『ジャズ来るべきもの』はむしろオーソドックスなモダン・ジャズに聞こえるはずだ。それは60年代以降のジャズに彼の音楽の方法論を応用したものが少なくないことを逆に物語っているとも言える。「音楽はスタイルではない。表現だ」と語っていた彼にとっては皮肉なことだったかもしれないが。

【参考動画】オーネット・コールマンの61年作『フリー・ジャズ』収録曲“Free Jazz”

 

 オーネット・コールマンは1930年にテキサスで生まれた。チャーリー・パーカーの影響を受けて14歳からサックスを吹きはじめ、最初は地元やニューオーリンズやバトンルージュのR&Bバンドで演奏していたが、自分のやりたい音楽はバンド仲間にもR&Bファンにも不評だった。それはロサンゼルスに出てからも変わらなかった。仕方なくエレベーターの運転手として働きながら、音楽書を読みふけったというのは有名な話だ。

 しかし50年代末には理解者が現われ、コンテンポラリー・レーベルから2枚のアルバムを出した後、アトランティックと契約。『ジャズ来るべきもの』と、ニューヨークのクラブ「5スポット」への一ヶ月連続出演によってセンセーションを巻き起こした。ライヴにはジャズメンだけでなく、ノーマン・メイラージャクソン・ポロックらニューヨークの名士が次々に訪れた。

 チャーリー・ヘイデンの回想では、ステージ脇でベースに顔を近づけて聞いている奴がいるので、邪魔だと追い払おうとしたら、ニューヨーク・フィルの指揮者レナード・バーンスタインだったという。未確認だが、トマス・ピンチョンの小説『V』にもオーネットをモデルにしたミュージシャンが描かれているそうだ。

 コード進行にもとづく即興の可能性を追求したビバップの実験が一段落した後、50年代のモダン・ジャズ界にはいくつもの潮流が生まれた。一つはビバップを再構成したハード・バップの流れ。一つはゴスペル・ルーツを強調したファンキー/ソウル・ジャズの流れ。一つはクラシックや現代音楽との折衷としてのサード・ストリーム。一つはクール・ジャズに寄り道してウエスト・コースト・ジャズに道を開いた後、フラメンコなどスペインの音楽に刺激されてモードにもとづく即興をはじめたマイルス・デイヴィスらの流れ、などだ。これらの流れはお互い隔絶したものではなく、同じジャズメンが複数の流れに関わっていることも少なくなかった。いずれもビバップの方法論の体験者たちである。

【参考動画】オーネット・コールマンの65年作『ゴールデン・サークルのオーネット・コールマン Vol.1』
収録曲“Faces And Places”

 

 チャーリー・パーカーに憧れて音楽の世界に入ったくらいだから、オーネットのフリー・ジャズもビバップの延長線上に連なるものだが、「ヘンな」コード進行を使ったり、微分音を生かしたり、テンポの変化を工夫したりしたので、音程が外れているように聞こえることもあった。メンバー全員が自由気ままに演奏するからフリーなのではなく、それまでのモダン・ジャズの語法の束縛をできるだけ避けようとしたところが自由だった。初期のニューオーリンズ・ジャズの集団的即興、というと堅苦しいが、口頭で打ち合わせして、ほどよく即興していく方法の柔軟性を、ビバップ以降の音楽言語に適用した前向きな先祖帰りという言い方もできるだろう。

 しかも彼の演奏には、リズムやメロディの面でR&Bから受けた影響も少なからず残っている。コンテンポラリー・レーベル時代の曲《ザ・スフィンクス》はとてもポップな曲だし、『チェンジ・オブ・ザ・センチュリー』に入っていた《ランブリン》は、ニューオーリンズR&Bに深く根ざしている。ヘンな音を出してバンド仲間からからかわれた彼だが、ポップな音楽が嫌いなわけではなかった。彼のサックスの人なつっこい響きに、R&B的な肉声の影響を指摘する人もいる。

 ジャズの歴史書には、フリー・ジャズは、調性のくびきから離れた即興方法による音楽とか、人種差別撤廃を求める公民権運動のフリーダム・ライダーズの運動に呼応して生まれた抑圧に抗う音楽とか、さまざまなことが書いてある。どれもみなそれなりに彼の音楽に関わりがあることなのだろう。

 マイルスの口癖は「俺は人のいい奴なんかとではなく、打てば響くような奴とやりたい。そいつの肌の色が黒でも白でも緑色でも関係ない」というものだった。わざわざそう言うところに、彼が白人から受けた差別の傷の深さがしのばれる。

 スタイリストだったマイルスとちがって、オーネットは、伝聞するところ、あるいは文章や音楽から想像するところ、いたずら心のある、とぼけたユーモアの持主だったようだ。彼はさまざまな人種や言語に興味を持っていた。そして「イコール」という言葉をよく使った。「ハーモロディク・デモクラシー」という言葉も残している。多様性を通して彼が夢見ていた音楽は、どこかの国の詭弁的な政治理念より、はるかに自由で高潔なものだった。

 


Ornette Coleman(オーネット・コールマン)[1930-2015]
ジャズ・サックス奏者。米テキサス州フォートワース生まれ。独学で演奏法を習得し新しい即興演奏を試みる。59年にデビュー。「ジャズ来たるべきもの」はジャズ界に衝撃を与えた。60年代の“フリージャズの時代”を牽引し、ハーモロディクス理論の提唱など独自のスタンスを貫く。アルト・サックスのほか、テナー・サックスやヴァイオリンも演奏した。2001年に高松宮殿下記念世界文化賞、2007年にピューリッツァー賞およびグラミー功労賞を受賞。2015年6月ニューヨークにて死去。85歳没。


寄稿者プロフィール
北中正和(きたなか・まさかず)

1946年、奈良県生まれ。J-POPからワールド・ミュージックまで幅広く扱う音楽評論家。『世界は音楽でできている』『毎日ワールド・ミュージック』『ギターは日本の歌をどう変えたか―ギターのポピュラー音楽史』『細野晴臣インタビュー―THE ENDLESS TALKING』など著書多数。